一部のお客様にはなりたくないのだけれど

 これを読んで思い出したのは、スーパーでバイトをしていた弟の話だ。その内容はというと……ここに挙げられているような人のいろいろのエピソードだった。正月最初の営業日、最初のお客様を店員一同でお出迎えしたら、腐ったミカンのクレームのために待ち構えていた「常連」だったとか。笑える話だった。まあ、ミカン腐ってたらあかんけど。まあしかし、一方で、笑えない話だな、とも思った。
 ひとつには、自分が店側の当事者として事にあたる場合。おれが接客業をするなどということは考えられないが、人生何があるかわからない。もしそうなったら、そんなものに耐えられそうにないな、という怖さ。もしかすると、店員というロールに徹し切ることができればやりすごせるかも? などと思うが、そんな可能性は低いだろう。おそらくおれは、普通の婦人に「青のりはどこに置いてありますか?」と聞かれただけでストレスを感じる人間だ。人間というものに対応するのは無理がある。
 もうひとつには、自分が「ここに挙げられているような人」になる可能性、あるいは、もうそうなっているのに気づいていない可能性、これが恐ろしい。不動産屋と敷金で揉めたときも、隣人の騒音についての対応をしてもらうときも、信号無視の自転車のせいで地面にたたきつけられときも、常にそのことが頭にあって、客観的に見てどうか? 契約更新時に値下げ交渉の打診をするのに、まったく返事をよこさない向こうが不誠実だと考えるのは真っ当か? 信号無視の自転車は妄想が生み出したものではないか? 警察への通報は社会通念を外れていないか? チェック&チェックのすえに行動する。行動したい。行動しなければならない。自分に非があってはならない、革命的警戒心がなくてはならない。そのために、この日記を使うこともしばしばある。メモする。確認する。自分の理性、知性、悟性、なんでもいいが、総動員体制でことにあたらねばならない……というおれ総動員体制が「ここに挙げられているような人」に自分を変容させはしないか。そのものではないか。それが怖い。
 怖いといえば、自分の父親というのは「典型的な」といっていい団塊世代で、世代論云々はあまり前向きな議論でないかもしれないが、学生運動をやっていたせいもあってか、不正義に対しては徹底的に糾弾するというのが身に染み込んでいた。相手に非があるとすれば、理詰め+行動を十二分に発揮する厄介な人物だった。自分から警察を呼ぶのに躊躇がなかった。子供心に「あんたは正しいが、そこまでやらんでも」と何度思ったことかわからない。その性格が年々ひどくなっていって、「一部のお客様」になったことだろう。反面教師だ。
 が、血統か教育か知らぬが、おれのなかにもそういうところがある。やっかいなクレーマーになる要素が十二分にある。それを感じずにはおられない。幸いのところ、このところおおれは大人しくなる薬も服用しているし、まだ大丈夫だ、という気はしている。できれば、このまま大人しいまま、判断力を有したまま、人に迷惑をかけずに死んでいきたい。「一部のお客様」にはなりたくない。おれは貝になりたい。
 ただ、ふと頭をかすめるのは、「一部のお客様」のように振舞って生きているというのは、どういう感じなのだろうかということだ。会計前の商品を食う、万引きして平然している。電話機を20台用意して一日中116に世間話をする。それは自由だろうか、気楽だろうか、楽だろうか、楽しいだろうか、どんな世界が見えているのだろうか。彼らの思い通りにならない世界に彼らは苦しみ、彼らもまた地獄にあるのだろうか。おれと彼らと分かつ線など確としてあるものだろうか。おれにはよくわからない。おれはスク水になりたい。

________________