『喪失と獲得 進化心理学から見た心と体』を読んだ

 おれの目下のところの興味は進化心理学的な見方における脳の病について、だ。Wikipedia先生(wikipedia:進化心理学)が解説してくれているのを引用すれば次のごとく(太字は引用者による)。

応用と発展
人間の行動のうち、生存・繁殖の成功の役に立たないように思われる行動(非適応的行動)や形質についての議論もある。たとえば同性愛のようなマイノリティの性向や、殺人・人種差別のような反社会的な行動、精神疾患などは本当に非適応的なのかという議論。若いうちに自殺することは完全に非適応的な行動だが、これには何の積極的な適応的意義もないのか、自ら命を絶つことは別の何らかの適応的な心理メカニズムの誤作動によって生じているのだろうかといった議論がある。このような社会的タブーに関連する研究には、人差別や犯罪の正当化に繋がる、あるいは正当化を試みているなどの批判がある。それに対して、人の本性を無視するよりは直視し理解する方がより良い社会を作るために有益である、人の本性を研究することと社会的・政治的に犯罪や差別を認めることは全く別の問題であるなどの反論がある。

 正直に言えば、おれは人間という種全体への興味、あるいはそれが生み出してきた社会全体への興味というのは薄い。問題は、なぜおれは社会不適応なのか? 何種類もの向精神薬を飲まなければ過度の不安や恐慌をきたしてしまうのか? 人の進化、人の心理の適応と淘汰の果てに、なぜおれのようなものがあるのか? ということだ。弱くて狂っているものが拠り所を求めている。そういうことだ。おそらく明確な答えなどないとしても。あるいは、あったとしてもそれが救いにならないとしても。だから、上の太字部分についておれは同意する。
 そういうわけで、おれは進化心理学の入門書などを読んだ。

進化心理学入門 (心理学エレメンタルズ)

進化心理学入門 (心理学エレメンタルズ)

 この本の第6章はとくにおれの読みたいものであった。
 そして、次に手にとったのがこの本だ。

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体

 入門書の次は……、これはちょっと違う方向に進んでしまったか? 「進化心理学から見た」いろいろの案件についての小論であり、コラムだった。扱う話題は多岐にわたる。興味深い話はいろいろ出てくる。むろん、むつかしすぎてわからぬことも多々ある(しょせんおれは文系の高卒なので)。また、発想そのものを、普通の感覚の逆からひねり出さねばついていけなかったり、たいへんなのだ。

 たとえば、私が心に痛みを感じるとき、あるいは舌で辛みを味わうとき、あるいは私が目に赤い感覚をもつときでも同じことだが、私を痛みを受けているわけでも、塩分に刺激を受けているわけでもない。それぞれの場合、私は能動的な動作主(エージェント)なのである。私は、ただそこにじっと座って、体の表面からやってくるものを受動的に吸収しているわけではなく、値踏み反応(evaluative response)―その刺激と、刺激を受けた体の部位にとって適切な―をもって体の表面に反射的に手を伸ばしているのである。

 お、おう。それでその、ダーウィニストってのはどんなもんかというと。

……私も、説明されない主観的な体験は私に苛立ちを引き起こすと言いたい。それは、恥じることのないダーウィン主義者、すなわち、自然淘汰による進化論が生物の設計(デザイン)のほとんどあらゆる側面において「なぜ」という問いを発し、そのうえさらに、そうした「なぜ」が、ほとんどつねに科学的に信頼できる「なんのために」に翻訳されると期待する許可証を与えてくれたと信じる人間が感じる苛立ちである。

 そ、そうや、その「なんのために」ある種の脳の病は淘汰されなかったんやろな。
 そんで、喪失と獲得いうたらどんなんや?

・突然変異―遺伝的な事故―が、生き残り問題を解決するためにそれまで進化していた手段の一部を奪いさることによって、ある個体を適応度の減少に向けて脅かす。
・そのため、その個体は、何らかの新しい行動戦略によってそれを補償する動機が与えられる。
・この新しい戦略は、結果的に、適応度における潜在的損失を埋め合わせる以上のことをし、その個体を他個体よりも優位に立たせる。

 それで、その例を体毛の喪失と発火技術の出現で説明してくれはる。けど、本命は記憶能力の喪失と抽象的思考の出現、これやという。チンパンジーの超すごい図形記憶能力を人類が失ったことで、もっと便利な能力を得たと。

……もはや、世界を互いに特定の関係を結んだ無数の事物からなるものとして描くことはできず、世界を規則と法則によって関連づけられたカテゴリーという観点から理解しはじめなければならなかった。そして、そうすることによって、彼らは環境を予測し、制御する新たな力を獲得したのに違いない。

 そうや、むかし、中学か高校のころ、登山家の今井通子の講演会というのが学校であった。覚えているのは、アボリジニだかなんだかの子どもだか大人だかは、ひと目で何十という動物を数えられるとか言っとった。いや、思い出しただけでアボリジニかなにかがチンパンジーに近いいうわけやないで。いや、適応という面では近いのかもしらん。ただ、今井通子はその能力を賞賛し、一方で今の日本の子どもはゲームばかりでみたいなことを言っとっただけやった(と思う。あと、本書でもカラハリ・ブッシュマンとオーストラリア原住民の記憶能力の高さについても触れられてた)。けど、この本の著者はそういう瞬間記憶能力みたいなのと引き換えに抽象的思考、そして言語というこの上ない力を得ることになったというわけや。ところで、なんでわい、さっきから似非関西弁になっとんのん?
 で、その引き換えの例としてサヴァンのナディアの絵(と検索するといろいろ出てくる)の能力について触れる。そして、いくらかの言葉と引き換えにそれが失われたことについて。本題は三万年前の洞窟絵画と彼女の絵を比較して、果たして三万年前の人類の内面というものはどういうものだったか、という話なのだけれども(おれはこの章、洞窟絵画の絵が不鮮明なのと、絵の比較がどうなんかはっきりわからんで、ようわからんかったが)。
 あとはなんじゃろうね、ちょっと受けそうな心理学小話みたいのはたくさんあるよ。占星術師の言うとおり、黄道十二宮のうち奇数番生まれの人が偶数番より実際に外交的な性格だったとか(もちろん星の影響ではない)、第二次大戦のとき、ドイツ本土爆撃に出向く兵士のストレスが酷かったが、平均四十回出撃すればそれ以上はないと知ると一気に士気が改善されたとか……。
 さらに興味深いのは14章の「法における虫と獣」で、中世にブタやハエがきちんと弁護人つきの裁判にかけられ、裁きを受けていたという動物裁判の話とかな。裁判自体が驚きのもんだが、なぜこんなことが行われていたかという著者の解釈もまた面白い。近代的科学が生まれる前に生きていた人々が、無知の瀬戸際に生きていたがために……。
 あとはなんだ、著者がカントをひいて明解に述べる道徳観念。

大部分の人間がもつ道徳性の観念そのもののなかに暗黙のうちに秘められているように、個々人は、彼ら自身が目的として扱われる―そして、他の人間が達成ための手段として扱われない―絶対的な権利をもつとするのが、まっとうな道徳体系である。

 こんなんも、ようしらなんで、へえそういうもんですかというあたり。それにそれに、ずっとおれが気になっていた「プラシーボってのは最良の薬じゃね?」(この日記のどこかにあるだろう)に対する答えになって……いるかどうか難しくてわかんなかった章なんかもあって、まあ面白かったわ。でも、次はまた入門書っぽいもんに戻ろう。そうすれば、またわかることも出てくるかもしらんし、と。