図書館で本を借りることを恥と思わなくなってきている

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図書館で本を借りては読み、読んでは返すという習慣ができてから2年くらい経つ。それまでおれは、本は買うものだと思っていた。そう育てられた。まだネット通販が盛んでない頃、父から紀伊國屋書店のアカウントを与えられ、漫画以外ならなんでも買っていいという時期もあった。親の金だろうと、借金だろうと、本は買うもの。

図書館というのは人生にとって眼中にないものだった。縁のないものだった。女の人がいる飲み屋とか、パチンコ屋とか、大人になってからの中学生用学習塾とか、引っ越しを考えていないときの不動産屋とかと同じく、視界の埒外にあった。

それがどうだろうか。実家が破産、一家離散となって十年くらいたち、ふと横浜市の中央図書館の図書カードを作ってみれば。どれだけの蔵書があるかわからぬが、読みたいと思える本は検索で出てくる。予約も取り寄せもできる。すべて無料でできる。図書館、どれだけすごいのか。

と、同時に、おれは深く恥じ入った。屈辱のように思った。本を借り、そこに記された価格を見るたびに、これは汚辱にほかならないと思った。こんなことが許されていいのかと思った。

それが今、過去形になりつつある。ときおり「あの本のあのページに書いてあったことを読みたい」と思ったときに手元にない、そういうときに嫌な気分になってしかたがなくなる。そういうことはある。あるには、あるが、だ。

つまりは、ただ普通に本を借りて読んで返すことに、抵抗がなくなってしまった。忍辱の鎧でも身につけたのか? 違う。自己正当化の蜜をなめただけだ。「今月の給与が出るかどうかもわからないのに、本を買う余裕なんてなくて当然だ」、「ちょっと専門的な医学の本など買って中身が理解できなければ大損だ」云々。

いや、云々する必要などない。「無料で手に入るものを手に入れて何が悪い」という開き直り、これしかない。むろん、その背景には、自分が貧乏人であるということ、本来なら本など読んでいる余裕などあるわけのない人生であるということ、その弱さにすがる狡さがある。「貧乏だからしかたないだろ」。言葉にすれば醜い。しなくてもおれの心中は醜い。言葉にするのは卑怯ですらある。

この醜さに慣れていくこと。貧しさとは、これが進んでいくこと。この醜さが進んだ先になにがあるのだろうか。もとよりなんらの自負も矜持もない生き方をしてきたが、それでも一握りの人間らしさくらいは維持していたいと思う。ただ、そんなものは自己正当化の甘みに負ける。図書館とおれの心理の移り変わりがいい例だ。人間は、落ちていく。落ちないためにどうすればいいのか、どんな本にも書かれちゃいない。そしておれは何もする気はない。