台無しの人生

人生が台無しになる、とは言う。ただし、台が無くなったあとの人生についてはあまり語られない。死んでしまう人もいるだろうが、死なないで生きている人もいるだろう。台が無い人生。

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首には縄がかかってる。台が無いが、かろうじてつま先を伸ばせば地面に届く。手は縄が首に食い込まないようにふさがっている。こんな状態でぶらぶらしながら体勢をなんとか維持して、呼吸をなんとか維持して……。こんなことでは自分の足で立ち、歩き出すこともままならない。両手を使ってなにかを作ることもできないし、なにより頭を使う余裕がない。

おれの人生はいつ台無しになったのか。考えてみてもよくわからない。大学を出ていれば少しはましだったろうか。それよりも、もっと学校とかいうところに順応して、人間関係というものを築けていれば別だったろうか。あるいは、家族というものともっと親密であればよかったのだろうか。考えてみてもきりがない。

台がある人生というのはいいものだろう。たとえば帰るべき実家があれば、一息つける余裕もあるはずだ。おれの場合、その一息を大学中退後に使ってしまった。今はもう存在しない。人によっては、その実家の富によって一生労働と無縁で生きていけるかもしれない。うらやましい。

生まれつき台が無い人もあるだろう。そんな人間から見たら、おれなどは自分の人生を歩み出すくらいの年齢になるまでは、十分な台があったわけで、なにを甘いことを言っているんだ、ということになるだろう。とはいえ、おれにはどうもこの世を生きる力に乏しいようだし、うまく渡っていく才能にも欠けるようだ。五体満足だが意志がない。それゆえに精神病になったのか、精神病が先にあってそうなったのかは知りようがない。それも言い訳と指摘すればいいわけだが。

いずれにせよ、おれは今日も首にかかった縄にくるくる翻弄されながら、惨めな踊りを踊っている。息継ぎはできるか? 一部でも足はついているか? どこかに余裕はないのか? 余裕、要するに金はないのか? ないんだ。金はない。増える予測もない。減って、無くなる、それだけだ。ブローティガンは家賃を払うことは死ぬことだと書いていた。そして、その上で本当に死ぬことがあるのか、と。ブローティガンは自分の頭を撃ち抜いて死んだ。おれはいつまで家賃を払えるのか。この世界に対する負債を払い続けられるのか。

手を放し、足を楽にしよう。楽になる。楽になるべきだ。だれがおれに地に足をつけて歩けと命じた? もうおれには台が無い。金が無くなれば、ひっそりと消えていく。みじめな思いはもうしなくていい。くだらないものに煩わされることもない。そうなったら、おれは地面なんてものからも自由になって、縄に引っ張られて銀河の西の方へ行くんだ。自由。おれは自由になりたい。縄に吊るされてるのはもう疲れた……。