おれはなぜ飯を食うのだろう?

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なぜおれは飯を食うのか、疑問に思うことが多くなった。腹が減るから飯を食うのだが、腹が減ったらなにが困るのか。おそらくは体が動かなくなって死に至るからだろう。

それじゃあおれは死にたくないから飯を食うということになる。おれは死にたくないのだろうか。人の心は一か〇でないすると、過半数で死にたいような気がしている。おれはもうべつに生きていなくてもいいという心持ちなのだ。それなのに腹が減るとものを食う。ひょっとすると死にたくないのかもしれない。

おれは飯を買うために働きさえする。とはいえ、働いたところで金にはならないし、おれは日に日に追い詰められている。おれが文字通りに食えなくなるのもそう遠い将来ではないはずだ。この世は金がすべてなのに、おれは金を稼ごうという意志を大きく欠いている。

もしもおれが死にたくないのだとすれば、なにか行動を起こすべきなのだ。世の中の優秀な人、あるいは普通とされる人ならばとっくにそうしているだろう。だが、おれにはなにか行動を起こすなんて気はさっぱりないのだ。おれは無能だし、そのうえ無気力だ。そう自覚したうえで何か自分を変えようなんていう気はさらさらない。とするとやはりおれは死にたいのかもしれない。

目の前の空腹に対して死なないようにして、人生全体を見れば死ぬ方に向かっている。矛盾しているように思える。とはいえ、おれは血肉をもった人間であって、目の前の空腹に飯を食うという選択肢を選んでしまうのはしかたのないことかもしれない。一方で、少し先のことについて対策を練るなんてことはまったくなくて、おれはもう死んでもいいように思っている。

おれはもう死んでもいいように思っている。そもそも仕事に執着なぞあるわけでもなし、打ち込む趣味があるわけでもなし。この世に対して興味がないかといえば、そんなことはないわけだが、しょせん興味は興味に過ぎず、本音のところで言えばどうでもいいのだ。本音のところで言えば、自分を取り巻く小さな人間関係なぞもどうでもいいのだ。ただ、本音のところだけで人間は生きていけないのだし、小さな欲望や執着、肉体の欲求に従わされるというところもあるかもしれない。

本音のところで言えば、世の中をにぎわしたりするあれやこれやなどに興味はないし、それに比べたらいつまで自分が食えるのかということのほうに興味はあるといえる。かといって、どうやって自分が食えるのかということは、とんと阿呆なおれの脳みそは働こうとしないし、働かせようとも思えない。

世の中には大きな欲求や執着、執念、良い言い方をすれば理想や理念に向かって頭を使い、行動できる人間というのもいる。それが世の中にとって正しかろうが誤っていようが、なにかする人間というのがいる。一方でおれのような怠惰な無能者が、自分がなぜ飯を食うのかも曖昧なままにぼんやりと生きている。おれのようなものが生きている理由も必要もないのだが、そうなってしまっている。彼らが余りある富を築き上げる一方で、おれのようなものは食いっぱぐれる。この世界はコンヴィヴィアルなんかじゃない。自然なことだ。

おれは金が好きだし、この世は金がすべてだと思っているが、本音のところでどうでもいいと思っている。結局は自分の人生もどうでもいいと思っている。とうぜんのことながらこの社会はおれのような人間が食っていけるような余地を用意してくれてはいないし、おれは唯々諾々と死ぬ方へ向かっていくことに抵抗をおぼえない。頭のなかではそうなっている。

一方で、やはりおれの血肉というものがそれに反抗するところがあるようにも思える。不安が動悸となって現れることもあるし、脳という臓器も黙ってはない。おれはそれを薬物でどうにか御する必要があるのだろう。おれはおれの人生がせめて安らであってほしいというだけで医者に行くのだし、長生きしたいという執着はそこにない。

ならばいっそのことすぐにでも自分の決断で死を選べばいいのだろうが、まだおれは少しのあいだぼんやりと生きられる。その少しの間というものが終わる間近に、おれはおれの生への執着に耐えられるのかどうか、ちょっと見当がつかない。おれの本音のところにある、おれのまだ知らないなにかが湧き出てくることだってあるかもしれない。しかし、そうなったところでそれはもう遅すぎるのだろうし、おれはできるだけ安らにあって、驚いた顔をしないで死にたいと思う。

そう思っておれは今日も昼飯を食った。おれはそうやって昼飯を食うだけの人間として生まれてしまったのだし、そうやって昼飯を食うだけの人間として形成されてしまった。すべては間違っていたのだし、それは世の中から正しい形で処理される。それだけのことだ。