中村元『慈悲』を読む

慈悲 (講談社学術文庫)

慈悲 (講談社学術文庫)

 中村元の『龍樹』はきつかった。しかし、はたして『龍樹』がきつかったのは中村元のせいだろうか? ナーガールジュナ自体がきつかったのではないか。というわけで、中村元のべつの本に手を出してみた。が、やはり東洋はもちろん西洋思想からもガンガン引っ張ってきて、膨大な出典付きであった(さすがは博士論文を四百字詰めで六千枚書いてリヤカーで運んだという人である)。が、おれは学生でもなければ、学者でもないのだから、出典なんぞ気にせずさらっと読めばいいじゃない。そうすれば、さらっと読めてしまうのである。さらっと読むことに意味があるのかわからぬが、おれという知的にも道徳的にも干からびた荒れ地に慈雨がさっと降ったくらいのことはあるかもしれない。
 で、この本の主題は「慈悲」だ。現代(といってもこれが書かれたのは1955年のことであるが)の諸宗教は慈悲というものをそれぞれ説いている。慈悲あるがゆえにそれぞれの信仰が成り立っているといっていいくらいの勢いだという。

 ところでこの問題は近代になって始めて論議されるに至ったことではない。実は古代インドにおいてすでに思想家がいだいていた疑問であった。仏教は仏の説であるが故に尊いのであるか、或いは慈悲の教えであるが故に尊いのであるか。仏教詩人マートリチェータ(※rの下に・がある文字とかどう出すのか面倒なのでアルファベット表記は引用者省略)は仏に向かって呼びかける。――

『輪廻の苦患を知り尽くしたおんみをそこに長い間とどまらしめた大悲と、おんみとでは、いずれを先にわれは排すべきであろうか。』
 現代の問題は実は古代の問題であった。最も新らしくてしかも古くから存するこの問題をわれわれは追及したい。

 だそうで。うーむ。たしかになんだ、仏教の本を読んでいても、それが大日如来という形をとるという必要はあるのか、阿弥陀如来という名前である必要があるのか、なんて思ったりもする。いわんや西洋やアラブの一神教の神にしろ。鈴木大拙は宗教から倫理は生まれるが、倫理から宗教は生まれないとか言ってたような気がするが、さてその関係は。あるいは、昔からある神仏の名を排すなり、混淆するなりして、その上に立って、われこそが絶対的で、全体的な、宇宙の神であるみたいな新興宗教の教祖さま、なんてのもいるような気がするが、さて。
 そんでもって、そもそも「慈悲」とわれわれが言うてるもんの語源はなによ? というところにいって、「慈」はパーリ語のなんとかで、「悲」はサンスクリット語のなんとかの漢訳でとかいうことになる。それでもって、それぞれを上座部仏教はどう考え、大乗仏教はどう解釈し……と。まあ、いいか。
 まあ、いいか、といえば、この本で「菩薩」は「ぼさつ」に横線というふうに表記されている。折口信夫が西洋語をカタカナで書かなかったみたいに。それについてなんの説明もない。いや、ここの箇所かな? またアルファベット表記は抜かすね。

 殊に漢字で「菩薩」と書くと、ひとびとには非常に神話的な印象を与え、何か雲の上のかなたのことを論議しているように思われるかもしれないが、インドでは実際の人物についてこういう呼称が用いられていたことが、歴史的にも実証されている。

 さようで。ちなみにおれは「菩薩」というものについて「そういうことだったのか」と思ったのは、フィリップ・K・ディックを読んでたときのことだ。
 いきなり話は飛ぶ。

 しかしわれわれは、ここで考えてみなければならぬ。もしも自他不二であって、自己と他人が同一の実体に属するものであるならば、他人をそこなうことは実は自己をそこなうというだけのことにすぎなくなる。しからば他人を害するということも、意に介する必要がないのではないか。他人を害してはならぬという命法がいかにして成立し得るか? 恐らく自己というものを実体視する思想にあっては、この難点を抜けきることができないであろう。

 迦羅鳩駄迦旃延(また別の本読んでて出てきた)の思想なんかだろうか、「実体視」を重視するとなると。そんじゃあかんから、自己(アートマン)を実体視せず、真の自己は法(ダルマ)にかなった行為的実践のなかにのみ実現されるいうこっちゃ。そう、それでもって「空」の思想が必要とされたいうわけらしいのだが、さて。

 慈悲は空観にもとづいて実現されるのであるから、慈悲の実践をなす人は「自分は慈悲を行っているのだ」という高ぶった、とらわれた心があるなら、それはまだ真の慈悲ではない。慈悲の実践は、慈悲の実践という意識を越えたところにあらわれる。

 右手にも左手にも告げることなかれ。さて、凡夫にはやけにむつかしい代物のように思えてきますな。

 空の倫理とは、鳥が大空を飛ぶように、他のものにもとらえられず、自由なこころもちで行動することである。各自が私心や欲望を去って、普遍的なあるべき理法にしたがい、自己の自由を確保することによってこそ、道徳が守られる。

 鳥は鳥で「虫いねーかなー」とか、「猛禽に襲われたらどうしよう」とか考えながら飛んでるかもしらんですぜ、とか茶化したくなるが、まあそんなもんですかいのう。
 とはいえ、阿弥陀様は凡夫のどうしようもないところをどうにかしますよと、そう誓願してくれとる。一念発起、ちょっとでもええから慈悲心を起こし、わずかなりともなんかいいことをするところくらいにしか、われわれの実践は存在しない。その上で、百人生かそうとして間違って千人殺すような間違いだってするけどしゃあないんだ、とか言ってくれたのが親鸞だったりするのかしらん。

 慈悲の完全な具現者は仏である。仏は大慈悲そのものである。だから仏は悪人を罰するということが無い。神は罰を下すけれども、仏が罰を下すということは考えられない。仏の大慈悲は、悪人をますますあわれむのである。だから、悪人が救われるということは、仏教においてのみ可能なのである、という主張が成立する。

 仏の顔もなんとやら……、ではない、と。とはいえ、他の宗教がこの主張にどう反論するかとか、しないかとかは気になるところではある。
 ほんでもって、えーと、もう眠いから店じまいで。飢えた百姓のために仏像の材料を与えたエピソードは栄西だったか、とか、忍性をディスった日蓮を著者はあんまりよく思っていないのかな、というか、あんまり日蓮のいいエピソードって仏教関連の本読んでても出てこねえなとか(日蓮宗の読めば別なんだろうけどね)、中村先生も鈴木正三と盤珪禅師をよく引っ張ってくるな、とか……。
 そうだ、七朝帝師・夢窓疎石のことが出てきて珍しいと思ったりしたな。「自分が救われていないのに他人を救うことができるか?」というところだ。大乗仏教じゃ「みずから未だ救われずとも、先ず他人をすくう」(自未度先度他)っつーことらしい。著者曰く、こうだ。

 個人は社会的存在であるが故に、自他が救われるということは、他人が救われるということを除いてはありえない。これは自他不二の倫理からの必然的帰結である。自己と他人とは別のものではない。自己がすくわれるということは、他人をすくうはたらきのうちにのみ存する。他人のために奉仕するということを離れて自己のすくいはありえない。

 真空妙有じゃなく、真空妙用とかいうやつか。違うか。まあいい、ここんところで、夢窓疎石の問答があって……引用するのが長いからやめた。ともかく礎石は隠遁的で独善的なそれまでの禅の態度をディスって、利他行以外に仏教はないんだって言ったという。

……かかる確乎たる精神的決意のもとにおいてのみ、かれの一生涯の偉大な事業の成立し得た所以を理解することができる。

 と。でもって、やっぱりそんなん偉大でもないおれはといえば、なにか他人をすくうことができようか。できんのだろうな、という無力感を突き詰めた先にまたなにかあるのだろうが、そこを突き詰められぬのもこの怠け者の正体ではある。

 かかる実践はけだし容易ならざるものであり、凡夫の望み得べくもないことであるかもしれない。しかしいかにたどたどしくとも、光を求めて微々たる歩みを進めることは、人生に真のよろこびをもたらすものとなるであろう。

 まあ、せいぜいそうあってほしいものではある。

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龍樹 (講談社学術文庫)

龍樹 (講談社学術文庫)

……まあなんだね、龍樹は龍樹でむつかしいけれども、なんというか、中村元の学者学者したカチカチっとした構成というやつは中村元らしさなのかしらね、とは『慈悲』を読んでも感じたか。