ある日のことである。となりの小隊の搭乗員が、何をしていたのか知らぬが空襲の合図とともに上にはランニングシャツ、下はフンドシ一つでとび出し、飛行機にとび乗るやそのまま離陸、迎撃にあがった。
そしてぶじ空戦を終えていざ着陸というとき、風防を開けたら風が操縦席内を舞い上がり、フンドシの前ダレがパッと顔にかかって、彼は一瞬、目隠し状態になった。着陸寸前のことでもあり、ハッとして取り払ったがおそかった。つぎの瞬間、機体はけつまずいてもんどり返る、という笑うに笑えぬ事故があった。
- 作者: 本田稔,他
- 出版社/メーカー: 潮書房光人新社
- 発売日: 2012/10/13
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よく空戦記など読むとバッタ、バッタと墜とすような印象をうけるが、あれとて長い期間のうちに、墜としたときのことだけが強調されており、その間の空白は描いていないので、なんだか、いともかんたんに引きつづいて墜としているような錯覚におち入るのである。
と、エースの本田氏も書いている。というか、この本を読んで「おお、そう言われてみればそうなのだ」と思ったのが、ラバウルあたりと独ソ戦やってるあたりの広さというか、密度というか、その違いだった。知っての通り零戦の航続距離はむちゃくちゃ長い。そして、その長さを目一杯利用した作戦をやっていた。空戦をしていた時間よりもずっと長く出撃と帰還をしていたわけだ。眼下には海が広がり、ちょっとでも間違えば燃料不足で海に不時着、ヘタすれば鱶の餌食。一方で、独ソ戦といえば、とひとくくりにはできないものの、東部戦線など地続きの近距離でインファイトしていたのだから、ドイツ空軍のエースたちが桁違いの数字を叩き出す(しかもドイツ軍は誇張が少なかったといわれる)のも宜なるかな。また、零戦のパイロット防護の思想の違いもあろうが、被撃墜しても復帰して、という例も多い。一概に同時代の撃墜の数字だけを見比べたところで、違うものは違うのだ、と。あとは、アメリカなんかは余裕なのかそれが優れたシステムだったのか、すぐに人の入れ替えをしていたから、個人の撃墜数が増えなかったなんて話もあるらしい。
とまあ、それはそうとして気になったところをメモしておく。
……ガ島の上空で敵機を発見し、攻撃態勢にはいった。しかし、敵機は編隊を組んだままで、いっこうに空戦体勢に入ろうとしない。……(中略)……一小隊一番機は名うての搭乗員、ニ小隊一番機は日華事変のさい、敵機にぶっつけて片翼で帰還した、これまたあまりにも有名な樫村寛一一飛曹長であった……(中略)……腕に自身のある各小隊の一番機は敵を一撃で墜としてやろうと、できるだけ接近した。敵との距離は五十、四十、三十メートルとみるみる接近していった。
ところがつぎの瞬間、敵機の尾部からいっせいに機銃が火をふいたのである。たちまち両一番機はかわす間もなく、火だるまとなって墜とされてしまった。
日本にも片羽の妖精がいたのか(wikipedia:樫村寛一……Wikipediaだと「F4Fと交戦し戦死」とあるから話が食い違うな)……というのはともかく、これには伏線がある。これはP-38と初遭遇したばかりのころの話なのである。著者は初めてP-38と遭遇したとき、軽爆撃機と認識し空戦を挑んだところ(1対8で)、逆に追っかけまわされてひどい目に遭ったという。で、逆にこのときは敵編隊を後部機銃のない戦闘機と思い込んでの悲劇だったというわけ。
……なんだけれども、「日時は多少前後するが」と書かれており、この引用時に敵機をP-38と誤認識したとは書かれていない。というか、錯覚した理由を「いまとなってはまったく見当がつかない」と言い切っている。戦場ではそういうこともあるのだろう。というか、P-38と誤認識して、とすればおさまりがよいところを、そうはせずに正直に書くあたり、信用できる読み物という印象は受けるが、さて。
で、ここまでが本田稔の手記から。あとはなんだ、盲腸炎になって手術して日が浅いのに無理やり出撃して、帰還時にまた「内臓が飛び出してくるような」痛さを感じたりしたら、本当に腸が飛び出していたなんていう話もあっておそろしい。いやはや。
つぎは梅村武士さんの手記から。
任務をぶじ終了してクーパンへもどると、大変なプレゼントが待っていた。なんと、きのう建設中だったテントのなかに舞台ができていて、内地からの慰問演芸をやっているから見にいこうという。
これが行かずにおられよか、とばかり、さっそく駆けつけてみたが、プログラムはだいぶ終わっていて、舞台はいまや花形歌手森光子さんの熱演の最中だった、
小柄な体に振袖を着て、その美しいこと、「ブンガワンソロ」や「タイの娘」などを歌う。このとき聞いた「タイの娘」は曲もおぼえやすく、私など歌詞をぜんぶおぼえて、それからずっと一人で歌っていた。
フハッ、森光子。戦争時に慰問に訪れる年齢だったか……と思って、またWikipediaを見てみたら、「あ、亡くなっていたんだ」などと思う。いい加減な話である。いやはや。
話は飛んで終戦時の話。
明くる八月十六日、午前八時。私は厚木に向けて出発した。途中、緑十字マークの輸送機に出合うが、むこうで遠くからさけたようだ。きのうから全飛行機は飛行禁止になっているので、日の丸零戦にあえばさけるのが当然かもしれない。
十時ごろ厚木飛行場へ着いて見ると、飛行場の空気は異様だった。指揮所はガランとしていて、黒板にはチョークで四文字、
「神州不滅」と大書してあり、窓から見える飛行場には、双発爆撃機銀河が十数機ならび、その一機ずつすべてに、「非理法権天」の文字を記したのぼりが風にはためいている。
「司令に会いたいが、どこだ」
「司令に会うのは危険です。司令は発狂状態で、右翼の予備少尉が日本刀を抜いて、司令を軟禁して、だれも近寄らせません!」
厚木といえば三〇ニ空であり、この司令といえば小園安名司令だろう。『日本のいちばん長い日』で見たやつだ! いやはやしかし、軟禁されていたの? Wikipediaでもいろいろ説があるようで、著者もそう言われただけだったかもしれない。しかし、「非理法……て?」と思ったら、これもWikipediaに説明があった(wikipedia:非理法権天)。これも大日本帝国のスローガンだったのね。
次は加藤茂氏の手記から。輸送船で南方に向かう船中でのこと。
その夜半すぎ、私は突然、士官室に呼ばれた。なにごとかと思って行って見ると、そこにはラバウルで一、二回みたことのある士官が、すててこ姿でベッドに横たわっていた。
こんな夜中になんで呼んだのかわからないので私がとまどっていると、
「こっちにきて、ベッドに入れ」というのだ。
私はとんでもないことだと思った。この危険海域いつ雷撃されるかわからないというのに、非常識もはなはだしい。私は内地からきたばかりで、さほど日焼けもせず、きっと“美人”とかんちがいでもしたのだろう。いくら上官でも、こんなことは、だんじて服従することはでいない。
こんな直接的にこんなことがあって、直接的に語られてるのか! いやはや。
次はラバウルの話。一〇〇式司令部偵察機は高度一万メートルを飛ぶ。高度一万メートルはすごく寒い。そしてラバウルは暑い。
これら搭乗員が偵察から返ってくるのをみると、身体や衣服類がまるで凍るように冷たくなっている。赤道にちかいラバウルの飛行場にいるわれわれ地上員は、暑さでうだっているので、そのたびに搭乗員の手足や服にさわって、しばしの涼をもとめた。
またときには、よく冷えたサイダーをもってきてくれることもあった。冷凍設備などのない前線の飛行場でのこの味は、まさに天下一品である。しかし、ときにはこの冷たいサイダーが、クセモノぶりを発揮することもある。
そのクセモノぶりは本書を読んでもらうとして、このあたりのディテールは体験者ならではかと思う。どうだろうか。創作者としての才能とちょっとした理系の発想力のある人ならば、暑い基地に帰還した高高度飛行士が冷えてるとか思いつくかな。うむ、わからん。
あー、きりがないのでこのへんで。空戦記などはなぜかドイツものやフィンランドものを読んできたが、これからはポツポツとわが国のものも読んでいこうか。うん。
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