文庫版解説の養老孟司曰く「情が理を食い破った人」、三木成夫の数少ない著書の一つである。ヘッケルの反復説をベースにしていたり、3歳までの子育て云々、牛乳より母乳が云々、玄米食云々と、ややあやしいところがあるのかもしれぬが、それでも「情が理を食い破った」とまでいわれる人の語り、これはなかなかに興味深い。
興味深いというか、おれはこのタイトル「内臓とこころ」だけでも、そうだよ、そこだよ、という感じを受ける。おれはいわゆる心の病であるところの双極性障害(II型)の人間だが、「はたして人間の心というのは脳の中にだけあるものだろうか」という疑問はつねづね抱いてきた。なにか恐怖を感じたり、羞恥を感じたりするとき、実際にどこが反応するのか。ドキドキするのは心臓じゃないのか。ゴロゴロといったりするのは腸じゃないのか。もちろん、脳の指示というものがあってのことかもしれないが、内臓は「心」ではないのか。あるいは、内臓は「わたし」ではないのか。そういう思いがある。
こころで感じることを、なにか具体的に表そうとすれば、ごく自然に“胸の奥から”とか“肚の底から”というでしょう。これはまさに胸部内臓と腹部内臓――つまり「からだの奥底に内蔵されたもの」との深い共鳴を言い表したものではないでしょうか……。このことは「こころ」の漢字の「心」が心臓の象形であり、しかもこの心臓が内臓系の象徴であることを思えば、いっそう明らかになると思います。
p.64「II内蔵とこころ」
うん、そういうこと。でもって、ここからが三木ワールドなのだけれど、この内臓系の「こころ」のリズム、たとえば胃袋のリズムが宇宙の大自然のリズム、周期と関係しているということである。気宇壮大というか、一歩間違えればなにやらトンデモ、オカルトに行きそうになる。でも、そこには行ってない、ように思える。
さて、ここで大切な問題が出てきます。それは、このアタマといいココロといい、これは私たちの祖先が、遠い遠い上古代の昔から、ずっと用い続けてきた日常の言葉ですが、あの大陸から漢字というものが入ってきた時、どうしてこれらに「頭」と「心」の二字が当てられたのか……という問題です。
その答えは明らかです。当時の人たちは、おそらくだれ一人として異議を唱えることなく、アタマの座を「頭脳」に、そしてココロの座を「心臓」に、それぞれ置いていたのでしょう。アタマといえば脳ミソ、ココロといえば心臓というのが、かれらにとっての肉体的な実感だったに違いない。こういう自然発生的な、そして時の重みに堪えてきた事実というものには、やはりなんといっても真実が含まれている……。
p.92
そしてわれわれの言葉の世界にも踏み入っていく。「脳=体壁系」、「心=内臓系」。心は内臓に根を下ろしたもの。内臓の復権、とくる。これはいい。これはおれが精神科だか心療内科だかで心臓の不安感を和らげるためにアロチノロール塩酸塩を処方されていることに繋がる。不安だから心臓がドキドキするのか、心臓がドキドキするから不安になるのか。どちらにせよドキドキを止めてしまえばいい(いや、ほんとうに止まったら死ぬけど)。まあ、おれのドキドキには一応、ホルター心電図検査の結果、良性の期外収縮という軽い病名はついているのだけれど。
直立を産むのは、ですから狙う衝動ではなく、あくまでも遠くを眺めようとする衝動です。この「遠(エン)」に対する強烈なあこがれ――これこそ人間だけのものです。宇宙の彼方に、果てしなく旅を続けてゆく、あの世界です。いってみれば私ども星ひとつ眺めているときでも、そこでは、じつは何千、何万光年の「時空の遠」を見ている、ということになる……。
III「こころの形成」 p.124
そしてまた、この三木成夫の「遠」の視点である。天体の軌道、生命の周期、そしてわれわれ、小宇宙としてのわれわれ、これを一気通貫しようとするようなところがある。これはおもしろい。ヘタすると科学的な厳密さからすっ転ぶようなところがあるかもしれないが、思想としておもしろい。むろん、身体をミクロコスモスとする思想は三木のオリジナルどころか、遠い昔からあったものだろう。あったものだろうが、それの復権を解剖学というところから切り出してくる。われわれの言葉というものが魚の鰓呼吸の筋肉に由来するといったりする。そこがおもしろい。ホルマリン漬けの胎児の首を切り落として正面からそれを見たところ(この本の表紙の絵もその一つ)から出てくる。数少ない著書から、思想(吉本隆明とか)や芸術(ほかの本の紹介文は谷川俊太郎が書いている)にまでいろいろな影響を与えた三木の世界ここにあり、といったところだろう。
本書は保育園での講演をもとにしたもの。「三木節」(養老孟司によれば、シーラカンスの解剖の講義で学生たちがめったにしない拍手をしたという)というもののかけらを味わうこともできる。おすすめである。以上。
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