おれは双極性障害者である。医師に診断され、それ用の薬も処方され、精神障害者保健福祉手帳も持っているので、客観的に認められていると言ってもいいだろう。人間の精神というものはそんなにかんたんに分類できないものだろうが、まあとりあえずはそういうことだ。
そうなってみると、「ほかの双極性障害者はどんなふうに生きているのだろう?」という興味が湧いてくる。同病相哀れむではないけれど、なんとなく、話が知りたいと思うのだ。そっちはどうだい? うまくやってるかい?
というわけで、坂口恭平の『躁鬱大学』を読んだ。坂口恭平という人が双極性障害ということは知っていたが、それをメーンにした本というのははじめて読む。
僕は躁鬱病です。今では双極性障害と言うらしいですが、その言葉じゃなんのことやらわかりません。躁鬱病と言われたほうがよくわかる。
「はじめに」
今の今では「躁鬱症」と呼ぶようになるかもしれないという話だが、まあおれも「躁鬱病」の方がわかりやすいということに異議はない。ついでに坂口は「躁鬱人」という言葉を使っているので、このエントリーはそれに倣おう。
でもって、本書のベースになるのが神田橋條治の語録ということになる。おれもいくらかこの病気について本を読み、そのなかで何度か名前が出てきた。おそらく、「語録」も目にしていたと思う。こちらである。あまり長くない。躁鬱人は読んでおいていいかと思う。
http://hatakoshi-mhc.jp/kandabasi_goroku.pdf
躁鬱病は病気というよりも、一種の体質です。心が柔らかく傷つきやすい人たちに多いです。特有の滑らかな対人関係の持ちようは躁鬱病の証拠です。その中心には生き物に対する優しさがあります。この優しさと気分の波とのコードは、DNAの同じ場所に乗かっているでしょう。人の顔色を見て気を使うといった平和指向型なので、他者との敵対関係には長くは耐えられません。もともと和を大切にする人なので、つい自分が我慢してしまうのです。我慢して自分が窮屈になるのがいけません。そういう環境とは相性が悪いのです。我慢して何かをするという性分ではありません。勘や直感にすぐれていて、「好き」「嫌い」で生きている所があります。普通、中高時代より好調と不調の時期があったはずです。
バーナム効果というものを考慮にいれて、おれがこれを読むとどう思うか。合っているところがあるように思う。自分で自分のことを「心が柔らかく傷つきやすい」とか言うのはどうにも気が引けるところがあるが、「心が強く、あまり傷つかない」と言うと嘘になる。「好き」「嫌い」で生きていると言われると、まあそうだなと思う。さすがに精神療法の達人の言葉である。
そして、『躁鬱大学』はこの神田橋條治医師の語録をベースに、坂口恭平が自らの症状とその回復を語る。
回復。これがすげえな、と思う。医師もいろいろな本も、躁鬱病は原因もわかっていないし、薬がなぜ効くのかわかっていないし、一生薬を飲んでつきあっていかなければいけない……でも、本当なのかよ、というようなこと坂口は述べる。
うーんすごいな。おれにそういう発想はなかった。原因、機序もわかっていないし、今のところは一生薬を飲んでいくしかないと、おれは思っていた。そして、いずれの未来に加藤忠史さんなどのブレインバンクによる研究などによって、機序が解明され、根本的な治療が確立されるのだと考えていた。落ち着かせる方法、生活法はあるかもしれないが、治そうという考えは思い浮かばなかった。そのあたりはすごい。
すごいけれど、ちょっと注意だ。やはり、坂口恭平は自ら述べるように医師ではないのだ。一当事者である。「ここで言っていることはよくわかる」ということもあるが、「え、なんかおれは違うな」ということも多い。あくまで、ある躁鬱人の述懐であって、おれというべつの躁鬱人からしたら、「そっちはどうだい? うまくやってるかい?」みたいな距離感で読むのがいいように思えた。
たとえば、こんなところだ。
他人から「すごいね!」と褒められれば「自分はすごい」ということになり、他人から「お前、ダメだと思うよ」とけなされれば「自分はダメなんだ」と鬱になります。そのときに、人からなんと言われたって、俺は俺だ、みたいな思考回路はゼロです。それが躁鬱人なんです。
最良の薬は「君はすごい」と褒められることです。それ以外の薬はありませんし、それ以上の満足感もありません。
「性格に薬は効きません」とは神田橋先生の言葉ではなく、おれの主治医の言葉だが、これである。おれは躁鬱人だが、褒められて素直に受け取るということができない。褒められるという受容体が存在しない。
おれはこれを「成功体験の受容体」などと呼んでいるが、おれにはこれがない。圧倒的にない。坂口は躁鬱人の特徴の一つとしているが、おれには「褒められて額面通りに受け取る」ということができない。このあたり、躁鬱とはべつの体質じゃないのか、と思う。
これはどうだろう?
エネルギー保存の法則のように、形態を変えたり、移動はしても、あなた自身のエネルギーは変わりません。つまり、躁状態のときに高く天上まで登った人は、誰よりも深い鬱の沼の底にハマっていきます。恐ろしいことではありますが、これは僕の経験からいっても事実です。しかし、前もって対策することはできません。躁状態のときには鬱状態の記憶が、鬱状態のときには躁状態の記憶が、それぞれ完全に見えなくなるくらい小さく変貌してしまうからです。
躁鬱人はとにかく忘れます。そして、矛盾してますがとにかくなんでも覚えています。
うーん、どうだろうか。おれはとにかく忘れる。女に「そんなになんにも覚えていなくて、人生楽しいの?」と言われたこともある。でも、一方で悪いことはとにかく記憶にこびりついて消えることがない。非躁鬱人にも多いかと思うが、急に嫌なことがフラッシュバックして、声が出てしまったり、自分で頬を叩いてしまったりはしないだろうか。
で、一方で、躁状態で「天上」なんて記憶はないのだよな。このあたりで思うのだけれど、坂口さんは(そう分類されるのは好まないかもしれないが)、双極性障害のI型に近く(過去の本によればII型ということなのだが)、おれは典型的なII型なんじゃないかということだ。それぞれの型についてはちょっと検索すれば出てくるので、勝手に調べてください。簡単に言えば、I型の方が波がでかい。すごくでかい。II型はどちらかというと鬱状態が長く、躁状態の波も低い。おれの躁状態となると、これがろくなものではなく、頭が空回りして、熱っぽくなって、キリキリして、歯ぎしりがひどくなって、手足が震えるという、「天上」とは程遠いものだ。これが、けっこうきつめの鬱のあとに来る。だからおれにとっての躁状態と思っているのだが、これに記憶もなにもない。そんなものだ。
でも、こんなところには同意したりする。
われわれ躁鬱人は心地よくなるのが、大好きです。とくにエッチな話が躁鬱人は本当に好きで、猥談とはつまり躁鬱語ってことなんですけど、鬱で死にそうになっているのに、深刻になっているのにふざけてどうする、ときどきいのっちの電話でもお叱りを受けます。
これも躁鬱人の特徴なんかな。おれにはわからん。ただ、おれはエッチな話が大好きだ。ネットではコンプライアンスを重視してSNSなどに書き込まないようにしているが、猥談大好きだ。「ああ、こいつ、猥談したいのに我慢しているな」とか思ってくれるとさいわいです。
猥談はともかくとして、次の言葉については考える必要がある。
非躁鬱人は少しずつ、自分たちの生きる領域が決まっていき、定位置で生きて行くようになります。なぜか? それはその方がラクだからです。
しかし、躁鬱人はまったく違います。真逆です。
一ヵ所にいると窒息するので、できるだけ移動しましょう。もちろん移動すると心臓が疲れるので、よく横になるのは忘れずに。草っ原でも石の上でも道路の上だって横になるのは本来好きなはずです。トム・ソーヤみたいな感じで生きると、すごく心地よくなるでしょう。
ここである。おれという人間は、できるだけ人間関係を狭め、行くところもやることも固定させていく方が楽だと思っている人間だからだ。だが、それが自分自身を窮屈にしているのかもしれない。そういうところがあるかもしれない。とはいえ、おれは見知らぬ店に入るのも、見知らぬ人に話しかけるのも大の苦手だ。人間関係というものを広げ、維持するのもむずかしい。そもそも、著者のようにゆきずりの性交をするなんてこともできやしない。あ、これは病気とは関係ない、人間としての魅力か。まあともかく、おれは固定と安定、静寂、「頼むから静かにしてくれ」というところを望む人間だ。それが非躁鬱人の、ようするに世の中の大多数の生き方であり、規範に則ったものに、無理やり自分を当てはめようとしてそうなったのか、そもそもそうではないのか、これはよくわからない。
おれは自由が好きだが、自由に耐えられるだけの自分というものがない。人生にエスカレーターというものがあったら、それに乗って死ぬまで生きたいと思う。自分で決意も選択もしたくない。そうやって生きてきて、このありさまだ。これは、まちがっていたのか。
われわれ躁鬱人は幸福とはなにかを追い求めることがっできる、希望を狩猟採集する、ハッピーハンターなわけです。生まれてきてよかったね。
進化心理学的にはそうかもしれない。ある局面で躁状態の人間が求められたからこそ、これが淘汰されず今もあるのかもしれない。では、おれはどうなのだろうか。そう考えると苦しいところがある。
それでもまあ、死ぬまで生きなければならないので、死ぬまでは生きるのだろう。できたらゆきずりの……まあいいや、ともかく、躁鬱人のあなたもなんか書いてくれ。そんだけだ。以上。
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この本も読んだ。個人でひたすら「いのっちの電話」(「いのちの電話にはつながらないから始めた)を受けて受けて受けた人間の書くことである。それによると、だいたい死にたくなる理由は一つに集約されるという。もちろん著者精神疾患を患っていたし、大量の電話経験がある。軽くは扱えまい。