おれはいい文章が書けてますか?

先ごろやけにブックマークを集めるエントリーがあった。

goldhead.hatenablog.com

もちろん、はやりの話題に乗っかったということもあるだろう。というか、ほとんどそれがすべてのようにも思える。なぜなら、このエントリーで書かれていることは、ほとんど今まで日記に書いてきたことだからだ。だれか物好きが、このgoldheadさんの人生の一部をコピペすれば、ほとんど書けてしまうものだからだ。

そういうわけで、これは妙だとブックマークを眺めてみると、文章がいいという方が数人いらっしゃる。悪い気はしない。しないけれども、「そうか?」と思えてならぬ。なにゆえかといえば、おれはもっと言葉に力を入れたことがあって、それがとくに反響を呼ばないということなんて何度もあったからだ。自分では、わりと力を込めて書いたのに、どうでもいいメモみたいなバイクスタンドの話で炎上する気持ちわかりますか? わからなくてよろしい。それにしてたって「【実録】」の言葉にそんなに力を込めた覚えはない。

というわけで、「いい文章」ってのはなんだろう、ってあらためて思うわけです。いい言葉ってなんだろうって思うわけです。

 言葉はわたしというものを言葉の内部に「暴力」の影のようにつくってきたし、つくっていると、わたしにはかんじられます。言葉は、いいかえれば、わたしたちにとって受難―情熱(パッション)にほかならないものです。旧約聖書のヨブの言葉をおもいだすのですが、「たとえわたしは語っても、わたしの苦しみは和らげられない」ということに、わたしたちにとってのありうべき言葉のありようはつきるのかもしれません。言葉は「わたしの苦しみ」をやわらげる試みなどではなく、「わたしの苦しみ」をじぶんにとりもどす試みにほかならないからです。

「言葉とつきあって」長田弘

そんなふうに長田弘は言うけれど、そういうものだろうか。おれにはよくわからない。よくわからないとは言うけれど、『「わたしの苦しみ」をじぶんにとりもどす試みにほかならないからです。』と言われると、そうかもしれない、などと思う。そうい意味では、自愛と自虐、自慢に満ちた「【実録】」も、ある種の苦しみを描いていて、うまく言葉と調和しているのかもしれない。そう見える人には見えるのかもしれない。見当はずれかもしれない。どうだろう。

ちなみに、もしも、もしもですよ、もしも万一、おれのような文章をよいと思い、書けるようになりたいと思うならば、以下の人たちの言葉をまず読むことがいいと思います。

そして、さらに日本語ラップを片っ端から、昔から今まで聴けば、もうおれの文章力なんてものは抜き去るに違いない。おれはすてきな日本語を読みたい。あなたが書いてくれたらうれしい。とはいえ、おれは貧乏だから、ほしい物リストからプレゼントを贈るようなことはできない。でも、きっと、キラッキラのはてなスター(黄色)を贈るから、頑張ってくれよな(←謎の上から目線)。以上。

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一人称で語る権利 (平凡社ライブラリー)

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