睡眠はよいことに決まっているのだ(レオパレスを笑えない)

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おれはおれが双極性障害と診断されてから双極性障害についての本をいろいろ読んできた。記憶は曖昧なのだがいずれの本にも「よく睡眠をとれ」、「酒を飲むな」と書いてあったような気がする。おれはおれが夜型の人間であって夜更かしを好み、依存性的に酒を飲んで酩酊するのが好きなので、書いてあったかったどうか曖昧にしておきたいのである。

おそらくは「双極性障害の人は積極的に夜更かしして睡眠不足になりましょう」とか「ガンガン飲みましょう」とか書いてあるはずはないのだけれど。

ここ一週間で、三日ほど、おれとしてはかなり早い時間に薬を飲んで寝る、という実験をしてみた。一月の頭から非常に忙しく、まだ正常の範囲を飛んでいるが、ちょっとスティックがブレると躁状態鬱状態へ吹っ飛んでしまいそうな気がしたからだ。

で、実験の結果はどうかというと、これが効果覿面というやつであって、朝はすんなりベッドから出られ、早めに出社し、日中もコーヒーに頼ることなく覚醒し、いらいらすることもなく、心理的には万事順調、なのである。睡眠万歳、といいたい。

が、おれの快調な時間がたいした銭にもならぬ労働に振り分けて、おれの人生が面白いのか、という話である。たとえばおれがなにか歩合制の販売者だったりして、たくさん物が売れて、その分たくさんのお金が得られるというのならばいい。しかし、おれはそういうタイプの労働をしていない。睡眠時間たっぷりでこなそうが、頭がぐちゃぐちゃになりながらこなそうが、同じ結果、同じ賃金、低い賃金しかでてこない。

おれは、あまりおもしろくないのである。気分快活ならそれでいいじゃないか、という人もいるかもしれないが、おれが睡眠時間をとるために犠牲にしたものといえば、本を読む時間であり、映画やアニメを観る時間であり、下手くそなゲームをする時間であり、インターネットを彷徨う時間であり、酩酊して無為に過ごす時間なのである。かけがえのない、ろくでもない、おれの生活の時間なのだ。おれはおれのこれらの時間を愛している。おれは労働をあまり愛していない。

なぜ、愛していないもののために愛するものを犠牲にする必要があるのだろうか?

そもそも、底冷えする安アパート、午前六時に上の階のやつのアラームでいったん目が覚める、また二時間ほど寝る、そんな睡眠で日中の元気を得る、いったいいかほどのものだろうか。おれにはわからない。社会の底の方で、おれはもっと人生を無駄に過ごしたい。

人生に意味はある。しかし、有意義ではない。

シオランの言葉だ。おれは、おれが酒を飲んでものを書いて、それで酒を恵んでもらって、またものを書くような生活を送りたい。だれかに止められようともものは書くので、だれかが酒を恵んでくれればそれでいい。スープはるさめでもいいし、オートミールでもいい。そして、おれがものを書くというのは、いかにもみなさまにとって無駄な時間、健康を損ねる時間から生じるのであって、快活な労働時間からは生まれない。深夜、座椅子ではっと目がさめたときに、それは降りてくる。おれには一日が二十四時間では足りないのだ、たぶん。