中島らもに似た感情 『心が雨漏りする日には』を読む

おれがおれを双極性障害と規定しているのは、おれひとりの思い込みではない。精神科医がそう診断を下し、双極性障害用の薬物を処方され、それを飲んでいるからである。ひょっとしたらふたりの思い込みかもしれないし、単なる誤診かもしれないし、実は別の病気や本来病気でもないのに医者がおれに薬を飲ませ続けている可能性もあるが、それは置いておこう。

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ちなみにおれが双極性障害躁鬱病)と診断されたときの日記がこれである。双極性障害のことより、心電図の結果についてビビってる。ともかく、それまでは一年くらい抗うつ剤を処方されていた。レスリンである。レスリンはいい薬だったような気がする。ともかく、SSRIでもSNRIでもないレスリンの処方から、この医者は最初からおれを双極性障害と疑っていたのではないか、という思いはある。思い違いかもしれないが。

さて、上の記事の一番下で紹介しているのが、中島らもの『水に似た感情』である。おれは「中島らもの書いた強烈な躁状態が頭にあるから想像もしていなかった」というようなことを書いている。おそらく、中島らも双極性障害はI型、おれのはII型ということだろう。当時は、その区別を知らなかった。

と、前置きが長くなったが、このたび中島らもの『心が雨漏りする日には』を読んだ。

 

心が雨漏りする日には (青春文庫)

心が雨漏りする日には (青春文庫)

 

 おれは中島らもの熱心な読者とはいえない。小説『ガダラの豚』、『水に似た感情』、『今夜、すべてのバーで』を読んだにすぎない。とはいえ、中島らも好きですか? といわれれば「好きです」ということになるだろう。

本書は中島らも本人の躁と鬱について書かれている。冒頭は、らもの父親のエピソードから始まる。曰く、いきなり庭にプールを作る、和弓をはじめる、横山大観の知り合いだと言い出す……。そして、何日かいなくなることがあった。考えてみると、入院していたのではないか、ということだ。

双極性障害は遺伝するのか? 一卵性双生児と二卵性双生児の一致率から遺伝が関わっている可能性は高い、とかそんなのではなかったろうか。おれの話になると、おれの父は病名のつく精神疾患の持ち主であることは確かだし、それが双極性障害と一致する可能性はわりとあるんじゃないかと、素人ながらに思う。

そんなふうに始まった本書、読むにつれ、中島らもはスケールの大きな……同病者だな、と思えてしかたなかった。酒への依存とか酒への依存とか。

 人と一緒に楽しく飲む酒ではない。食事がおいしく食べられるからとか、ストレスを発散させるためという酒ではないのだ。ただ酒のための酒。何の目的もない飲酒である。

自分一人で時間を潰すことができる能力のことを「教養」というと、どこかに書いたことがある。自説に従えば、おれには教養がないのだ。酒を飲まなくてはどうにも時間を消費できない。一人でいる時間には、ウィスキーのボトルを手放せなくなっていた。

 この「教養」の自説は何度か出てきた。おれもそうだ、気づいたら酒のための酒になっている。ハードリカーで向精神薬を飲み干す……と、たまに書くが誇張がある。向精神薬を水で飲んで、あとから酒を飲む。あるいはその逆。このあたりが小さい。

そうだ、おれは最初に精神科医を訪れたとき、問診票を見られながら「この大学中退は、大麻?」ときかれた男である。とはいえ、おれは大麻くんなんて見たこともやったこともない。そもそも中島らもが「ヘルハウス」時代にやっていたような睡眠薬遊びとも無縁だ。おれはオーバードーズもしない。せいぜい、どうしても眠れないとき、睡眠薬をおかわりするくらいだ。それも軽いアモバンにすぎない。中島らものように「馬を眠らせるような」大量の処方も受けていない。

ああ、しかしそれにしてもな、あらためてWikipedia先生で「中島らも」の項目を読むと、自分と似ているなんていうほどおこがましくはないが、いくらかの共通点はあるように思えてくる。ドロップアウト具合だとか、セリーヌ(おれは全集を読んだぜ)や東海林さだおが好きだとか(バロウズは読んだけど、まあ)、ナルコレプシー的な症状だとか(おれは睡眠時無呼吸症候群で「落ちる」)……。でも、残念なことにおれにはなんの才能もなく、人脈もなく、世界の片隅で鬱々としているだけなのである。たとえ寛解しようとも(いま、しているのかもしれないが)、さてそこで能力を発揮して十分な食い扶持を稼ぐとか、世のためになるとか、そんなこと一切ないのだ。虚しい話である。そして、病気が悪化したところで入院する金もないし、支えてくれる人もいない、内臓がどうかなってしまうくらいたくさんの酒を買う金もない。

ほんとうに、なんで生きてんのかね? よくわからない。

そうだ、時代劇で武家の女が短刀で喉をついて死ぬのを見たことがある。頸動脈を絶ち切るのだ。おれは包丁を持って鏡の前に立ち、首を切る練習をしてみた。しかし、どうも気に入らない。怖いのではない。痛いのが嫌なのだ。

 喉をつくのと切るのでは違うような気がするし、どちらかというと側面をカッティングするほうが正しいのではないかと思うがよくわからない。このあと、中島らもは飛び降り自殺を覚悟するのだが……。そういう死に方はできなかったね。

ああ、おれの心も雨漏りしっぱなしなのか。泡盛は普通のやつがよくて、古酒はちょっと合わないな、とか感じながらこれを書いている。なんかこう、おれの人生で弾けるようなこと、ないのだろうな……。

 

今夜、すベてのバーで (講談社文庫)

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水に似た感情 (集英社文庫)

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