『さらざんまい』についてなにも語れない馬鹿ってどうやって生きてるの?

 

アニメ『さらざんまい』が最終回を迎えた。おれはそれを見た。それを見て思った。「なにもわからん」と。

おれにはおれの知の壁というものを意識できる能力があると思っていて(思い上がっていて)、おれにとって『さらざんまい』についてなにか語ることができる、言葉にすることができる知見、知識、知の根本的な絶対量というのは、まったくおれには足りないものだという確信がある。

おれにそれについて語れるだけの知見、知識、知の根本的な絶対量があれば、この世というものはもっと高い解像度のものであって、おれにはもっと精細に、明らかなものとしてうつるのだろうという、そんな「もの」や「こと」がある。むしろ、そんな物事ばかりが世界であって、おれは象を撫でる群盲の一人にすぎず、ましてや何事かを言葉にできることは、この世のほんの限られたことに過ぎないのだろうと思う。

そう思わせてくれるものがこの世にはいくつかあって、たとえば『さらざんまい』はその一つだろう。おれはこの作品について、この作品が語りたかったものについて、何一つ言葉を発せない。でたらめでいいから、なにか解釈を語れと言われても、おれは沈黙しか用意できない。

そして、思うのだ、おれにも知能というものがあれば、この世がより明瞭に見え、おれはうまく生きることができたのだろうか、と。

無論、ある(抽象的で高等な)作品を読み取り、それを言語化する言葉を有することと、資本主義社会をうまく生きる(支払能力に事欠かない)ことは別だということもあるだろう。だが、おれは知能の壁と支払能力の壁が同一のように思えてならない。おれには見えないことが多すぎて、その見えないところで世界が動いていて、おれは取り残されて、なにも見えないまま、そして金を稼ぐことなくこの世から消える、なにも残さずこの世から消える、ただそれだけなのだろう、と。

『さらざんまい』について語れるものは幸運である。それは、すくなくともおれより優れたレンズでこの世界を見ることができることであり、おれより優れた言語化能力を有するということである。おれより優れていたところで、おれは社会の、知の底辺にいるわけであって、いったいどれだけのことかという話ではあるが、少なくともそうなのだ。おれはそれを羨ましく、妬ましく思う。おれにももっとものを見る目があれば、ものを聴く耳があれば、それを解釈する脳があれば、言葉にする口があれば、そう思う。

しかし、なんでおれがそんな『さらざんまい』を最初から最後まで見て、消さない録画を残したかといえば、その動き、その歌、そのアニメーションが良い、と思ったからだ。だが、おれにはその「良い」を説明する言葉を持たない。そして、無知のものが「良い」と思ったから「良い」のだ、という暴論を振りかざすつもりもない。おれは無能力さに打たれるのみなのだ。

 

さらざんまいのうた/カワウソイヤァ

さらざんまいのうた/カワウソイヤァ