またいつか澁澤龍彦を読み返したい―『澁澤龍彦玉手匣』を読む

 

澁澤龍彦玉手匣

澁澤龍彦玉手匣

 

作家に長篇型と短編型があるとすれば、私は明らかに後者であろう。だから極端にいうと、たとえば原稿用紙一枚か二枚の推薦文などに、私のもっとも得意とする領分があるのではないかと思ってしまうほどだ。

……という澁澤龍彦アフォリズム、あるいはアフォリズム的に編集されたものを収録した本だ。

と、おれと澁澤龍彦澁澤龍彦とおれ。中学生の頃だったろうか、父親の本棚に『秘密結社の手帖』か『黒魔術の手帖』を見つけた。あるいは、ひょっとしたらサドの翻訳本が先だったのかもしれない。ともかく、おれは澁澤龍彦に夢中になった。もちろん、出てくる単語や固有名詞などわかるものの方が少ない。それでもおれは夢中になった。澁澤龍彦の文章にはそれだけのものがあった。おれは名文には無条件で降伏する。

 ……それからもう一つ、この裁判でまことに空しい思いをしたのは、ワイセツという観念のバカバカしさですね。ワイセツなどというものは、前にわたしは、そんなものは世の中に存在しないと申しましたが、かりに実体ならざる観念として存在したにせよ、少しも危険なものではありません。

 大野弁護士がいみじくも喝破した通り、男は女にとって最もワイセツであり、女は男にとって最もワイセツである。とすれば、ワイセツはどこにも転がっている。この法廷の中にも転がっている。"ワイセツがいっぱい"というわけです。ワイセツによって大戦争が起こった例もありませんし、ワイセツによって革命や暴動が起こったという例もついぞ聞いたことがありません。ワイセツよりも、もっと危険なものが世の中にはいっぱいあります。

 わたしも物を書いて身すぎとしている人間の一人ですが、ワイセツなんぞよりもはるかに危険かつ恐怖すべきもろもろの観念を、いつも自分の著作や文章の中に、ひそかにばらまいておるつもりです。

サド裁判」最終意見陳述

 これは裁判の意見陳述なのでもっと長いが、おれは知らず知らずのうちにワイセツと、ワイセツなんぞよりはるかに危険な観念を吸っていたことになる。もちろん、澁澤は男と女という単純な性の見方をしない人間である。それはこの玉手匣(エクラン)の中にもいくつか見つけられるだろう。

して、まだ中学生なのに。おれの右とも左とも言えぬ、そして保守的とも言えない放埒な妄想は、澁澤大兄によってもたらされたものかもしれない。

そして、文章だ。おれは父親に「澁澤龍彦の文章はどのくらいのものか?」と聞いたことがある。その答えは「日本文学史上で十本の指に入るという人もいておかしくないだろう」とのことであった。おれは無学なので五本の指に入れてもいいんじゃないかと思う。

その文章について。

 たとえば「軽さのエレガンス」ということがある。文章は、あまり仰々しく重々しくなってはいけないのである。伊達の薄着のように、着ぶくれしないで、しゃんとしなていなければならない。軽さもエレガンスも、怠惰や無気力を拒否する精神の特質であろう。

 またスピードということがある。文章は圧縮すればするほど密度が濃くなり、したがって読む側から見れば、スピード感が増したように感じられる。スピード感のない文章は、間が抜けていて退屈である。

 スタイルとは、単純なことを複雑に言う方法ではなく、複雑なことを単純に言う方法である。むずかしいことをやさしく言う方法である。世間には、これを逆に考えているひとがずいぶん多いようだが、それは間違っている。

コクトーに学ぶ」

これも、知らず知らずのうちにおれが取り込んできたものかもしれない。いや、もしも取り込めているなら最高だ。おれほど怠惰と無気力の人間もいない。そこに「軽さとエレガンス」はない。おれは軽く、エレガンスなのがいい。どうすればいいのか。澁澤はコクトーの言葉をひいて言う。

「私はオリジナリティーは大きらいだ。出来るだけそれを避ける。新調の服を着たような様子をせずにオリジナルな創意を生かすためには、細心の注意を要する。」

これはすばらしい。何度も書いてきたが、おれの書く文章とは、おれが影響を受けてきた作家や思想家、漫画家、ラッパー、その他創作者の真似事である。物真似にすぎない。ただしもう、物真似をしすぎて、オリジナルがなんだったのかわからなくなっている。それがおれのつまらぬ個性といえば個性なのだろうが、そこにこれといった価値を認めない。かといって、まったく価値がないともいえないという軽薄な自負もある。

おれが受け取ってきたもののなかで、澁澤龍彦の存在は大きい。中学生のころに比べて、いくらか知識だのものの考え方だのを知った今、またあらためて澁澤龍彦を読めば、新しい発見もあるだろう。だが、今しばらく、その楽しみは取っておこう。まだおれは新しいものが読みたい。そういう思いがあるのだ。