またまたまた(以下略)寄稿いたしました。
読みました?
読んだ?
読んだのかな?
読んだっしょ?
よし、読んだ。
で、なんというか、なんか、なんというか、こう言っては寄稿先に失礼になってしまうのだけれど、どうも、なんか言い切れた! という感じのない記事かな、と思わないでもなく。
でも、なんですか、書いていると考えがまとまる、みたいなことってあるじゃないですか。曖昧模糊としたものがあって、書くことによって形になる、こともある。もちろん、喋ることにことによって気づく場合もある。
いずれにせよ、自分の頭の中の曖昧模糊とした「X」を、なんですかね、書くという行為を通じて解く、数学はわからんけど、Xはこれこれこういうふうに分解できましたよ、とお見せする。"自己表出"と"指示表出"ですかね、よくわからないですね。
というわけで、どこかで自分を文章のステイヤー(長距離走者)だと勘違いされていて、「いやあ、おれは澁澤龍彦じゃないけど、短距離走者よ」と思って、「そういやおれはいろんな面で短距離的な人間かな」って思ったわけです。
……わけですが、長距離的なところがないわけでもない。たとえば、ブログの記事の一つ一つは短くても、続けてきた年月は長い。ブログ三日坊主みたいな人から見たら、「長いこと走ってんな」と思われるかもしれない。
でも、なんかそれっておれにとっては違うんですよ。真っ白な入力欄を前にすればいつでもフレッシュ、スタートライン、そしてゴールはそんなに遠くない。まあ、ブログなんてものはべつにこのまま5万字書き続けてもおれの勝手なんですが。
あと、いきなり話が飛びますが、おれの記憶の飛ぶ話になります。どうもおれは小説や映画の筋を覚えるのが苦手だ、苦手というより無理だ、ということもある。ただ、たとえば映画の「あるシーン」というものについてはよく覚えている方かもしれない。とても短い、あるいは「カット」という単位なのかな。
で、さらに話を飛ばすと、この世には「もの」と「こと」があるじゃないですかって話を読んだんですよ。
で、思うに、おれは「もの」好きな人間かもしれないなって思うわけです。澁澤龍彦(彦の字の旧字は<機種依存文字>って出るので使っていません)なんかは『オブジェを求めて』なんてアンソロジー本出してるじゃないですか。
「役に立たないものが好きだ」というわけです、澁澤さんは。思想や理念より「もの」だと。で、考えてみると、おれにもその傾向はあったわけです。澁澤を読む前、小学生のころとか、えらく鉱物が好きで、そんな博物館に連れて行ってもらったり、藤沢の東急ハンズで小さな鉱物標本をこつこつ買ったりしてたもんです。
なんでしょうね、「こと」(ストーリー?)は苦手だが、「もの」はいい、そんな傾向があるような気がする。澁澤龍彦が(そして三島由紀夫も)敬愛する稲垣足穂も、たぶん「もの」の人だと思うのですよね。自転車のサドルとか、飛行機とか。いや、『少年愛の美学』はどうなんだ、みたいに言われてしまうけど、どうだろうか、どうもおれは稲垣足穂の「もの」感が好きなんだよな、とか思ったりするわけで。
それにしても、『一千一秒物語』はすげえよな。どこにも古さを感じない。すげえかっこいい。まあ、今はいい。
そんで、なんで「もの」だの「こと」だの言い出したかというと、最初に紹介した記事に、最初は「もの」志向(嗜好)=短距離的、即物的というような、強引な接着をしていたんですね。でも、一晩寝かせて、「やっぱりなんか自分でもわかってないし、無理があるな」とざっくり消したわけです。
でも、なんかいつかこれに関して頓悟したりしたら、これについてあらためて書きたいと思う次第で。なんかこう、頭の中に端っこに眠らせておくと、突然、なんかに触発されたりして、気づくことあるでしょ、たぶん。まあ、触発のために、いろいろのインプットも大切になるわけですが。
あれ、おれってけっこう気が長い? まあいいや、それでは。