こんな本があった。
まあ、稲垣足穂については本人が言うところのこれに尽きるのだが。
この物語を書いたのが十九歳の時で、以来五十年、私が折りにふれてつづってきたのは、すべてこの「一千一秒物語」の解説に他ならない
三島由紀夫とかいう人いわく「昭和文学のもつとも微妙な花の一つである」。どうでもいいことだが、おれがもつとも愛する本の一つでもある。
『詩文集』には「物質の将来」という一編が収められていた。
物質の将来
仮面の人々へ
- 三日月の美学
- 蝶よりは蛾、宝石よりはガラス。
銀よりはブリキ、花よりは……。
昼よりはよる、しぐれよりは急雨。
ポプラよりはマロニエ、雲よりはガス。
陶酔よりは驚きと刺痛、踊子の足よりは少年の沓下。- 近頃は角のあるものが好きで、お月さまが三角形に、海は海色に、エントツがボール紙製に、夜が遠くの扉のやうに見えるのです。(手紙)
- 芸術にをけるネガテイブの世界。
- すると普段は三日月に腰をかけてタバコを吸つてゐる紳士が云ふのでした。
- 俺たちは三日月に腰をかけてゐる紳士の身方だ。
- 星と泥、ゴム風船、セルロイドクリチツク。
- 急雨、星の夜ピカピカした自動車で迎ひにきたお父さんらしい人。
- 赤いスエター、飛行機。
- 空中楼閣としての人間性。
- 宇宙は星をたべすぎて……。
- 名画、カステール鉛筆の城と赤い馬。
- ゼムの顔。
- 真鍮の砲弾。
- Mr. Nowhere & Mdm. Moonshine ノクチユルヌ氏の見張所。
- 木星族の人々。
- 惑晩の話、月夜村のハム、少女、月の出。
- ホーキ星の時間貸(地球のとつぱしにて)
- ピーターパン、道化面、マーチヘアレス、動物。
- 地上は思い出ならずや。
- 世界の隅々に追ひこまれてゐる同志。
- ヒル・カール・デユイスベルグ博士(アスピリン発明者)
- 菜の花の飛行機に及ぼす影響、春の形而上学。
- 一晩に出来た街からきた人。
- 二日月の夜の話。
- コルクの原理。
- 物質の将来。
- 夜間従業者の頭脳に及す電灯と月光との関係。
- 思い出のラーリーシモンへ。先駆者。宇宙の市民、ジユールラフオルグへ。
- 芸術とはノリのついたキモノをきらふ。
- 幾何学としての時及び自己(ハンドル及び車輪のうそ)
- I氏、黒頭巾、ウーフア、夜、人形、金曜会、マンレイ。
- 前半球への郷愁。
- 寄席の舞台から――へまで突きぬけた人。
- 薄板界(ドイツセン博士切断法による)
- 月高き刻限の話。
- 活動役者R・S氏の純粋に対する世俗の内的攻撃(デービイルサイト)
- 首を出す人(ハリー)
- 銀くさい人々。
- コカインと函数の誘惑。
- ヒユーチユアリズムの画中にある夕方、ムービイ街。
- 蜘蛛のクラブ。
- リグレイチユーイングガムの小鬼とステツドレルペンシルのお三日月さまとの対話。
- 丸山薫氏の築城術。
- 小品フイルム、月界の夢、インク瓶やエンピツばかりがうつるやうなもの、三分間作品。
- 人と影。
……なにを言ってるんだ? なんだろうね? おれは知らないよ。でも、なにかの対比が多く見られるね。
今までの退窟なのにくらべて、私たちが今後の唯美派にのぞむものは、ちやうど花火かタバコのやうな感じのものである。それを今までのものと対象して述べてみると、昼よりは夜の方がよく。芝居よりは活動写真の方がより新興芸術的で。述懐よりは対話。短刀よりはピストルがよく。阿片よりもコカイン。汽車よりも電車。勿論馬車よりも自動車。競馬よりもモーターサイクルの競争。ペン先よりも鉛筆。コーヒよりもココア。シガーよりもシガレツトの方がいい。それから、太陽よりも月、月よりも星。薔薇の鉢植よりもサボテンの鉢植。それも造りものならなほいい。柳よりもプラタナス。松よりもポプラ。蝶よりも蛾。それもブリキ製のゼンマイ仕掛なら九十三点だ。――それから、金よりも真鍮。プラチナよりもブリキ。水晶よりもガラス。ダイナマイトよりもスタジオに使ふ有煙火薬――深夜の都会に炸裂したマグネシヤ式の光弾なら申し分はなし。雪よりも霰。時雨は急雨と改めたがよく。雲といふやつはクラシツクで野暮だ。雲より霧がいい。霧よりも靄の方がよからう。いや、それは瓦斯体と云つた方がいい。ピカソよりもピカビア。モーパツサンよりもクラフトエービング氏の記述。夢よりもうつつ。過去よりも未來。わかつたものよりえたいの知れぬもの。完全なものより半端のもの。立派なものより下らないもの。目的のあるよりない方がほんたうらしく、トルストイの小説よりは、飛行術その他のメカニツクに関した専門書の方がより気を引くに足るものであり、社会学のページをくるより、テーブルの上に造られたボール紙製のユトーピアに豆電気をともしてみる方がましだ。それから、曲線よりも折線。四角のものより三角のもの。円いものよりとがつたもの――したがつて踊子の沓下よりは少年のチンチンのほうがはるかに感覚的ではあるまいか!
「私の耽美主義」
おれが何を言いたいのかわかるか? わからないなら、わからないだろう。おれにもわからない。ただ、おれはタルホ的なものを好むように思う。なにを言っているのか本当にわからないこともあるが、だいたいにして好ましいと思う。日本という国の、西暦1900年にこんな人間が生まれていたことに驚こうではないか。「物質の将来」は1930年に書かれた。「私の耽美主義」は1924年に書かれた。
このようなタルホ的な趣味を「男の子の秘密」のように書いたのは三島由紀夫だったか澁澤龍彦だったか、それとも松岡正剛だったか。おれの勝手な思い込みでは、なにかこれらの趣味は女の子を寄せつけないところがあるように思う。べつに稲垣足穂が『少年愛の美学』を書いたとか、そういうわけではない。ただ、男の子が秘密の宝箱に詰め込むもの、父親の書斎に入り込んで机の抽斗で見つけるもの、そういう感じがする。
なにか耽美だとか言いつつも、ホモソーシャルなところがある。あるいはホモソーシャルに含まれる耽美。ホモソーシャルがあまりいい意味の言葉ではないといいつつ、21世紀のおれはそんな言葉しか浮かばない。もちろん、「女性の私にだって心底わかります!」と言われたらそれまでだし、べつに否定する理由もない。おれはもとよりよくわからないからだ。
それにしても、なんでこんなモダーンな感覚を持った人間がその時代に生まれたのだろうか。そればかりはやはり、後にも先にもない孤高の存在として「微妙な花」であった稲垣足穂という存在というものだろう。この異質さはエピゴーネンすら許さない。
さあ、気になったら『一千一秒物語』を読むがいい。それだけだ。