友達がつくれない子供には薬を飲ませろ

 

寄稿いたしました。

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かなりストレートなタイトルになっておりますが、まあ自分が言いたかったことはこれなので、これでいいでしょう。

 

というわけで、自分の「不安症」とその対処法を書きました。不安症、心配性、奥手、引っ込み思案、内気、消極的な人はちょっと読んでみてください。……って、タイトルに答えが書いてあるんですがね。

 

しかしまあ、こういう性格の子供というのは、友達がつくれない。つくりにくい。気づいたら一人だ。社交性というものが手に入らず、孤立して、悲惨な人生を送ることになる。

 

この地獄には要求されるべきものがたくさんある。健康な心身、人に好かれる社交性、算数と数学と化学と物理とプログラミング、部屋を片付けられること、役所の書類を読み書きできること、正しく箸を使えること……。そしてすべては金を稼ぐことができるかどうかにかかっている。

 

そのなかでも、やはり社交性は重視されることの一つだ。コミュニケーション能力だ。これが欠けていると、金への道がかなり遠ざかる。健全な人間関係のなかで育まれる、自分への自信、人生の意志、困ったときに人に頼ることのできる安心感……。

 

小さなころに、これに失敗するとろくな人生は送れない。その例がおれだ。おれはコミュニケーションが苦手なので、ほかにそんなやつがいるかどうかしらない。しらないが、世の中には「コミュ障」なんて言葉がある。そんなやつはいるはずだ。

 

そして思うのだが、そういう内気でどうしようもない怖がりの子供には、抗不安剤を飲ませるべきだ。ちょっと怖くなくなる。自分から他人へ語りかけることができるかもしれない。恥をかくことを極度に恐れなくなるかもしれない。なにもしないよりも、精神論よりも、先生の「みんな仲良くしましょう」という言葉よりも効くだろう。

 

副作用? 知った話か。依存症になるほうが、孤立して、いじめられるような人生をおくるよりましだ。将来の収入にも大きく影響するに違いない。

 

なに、病気でもないのに薬? じゃあ聞きたいが、病気と障害と性格の境界線ってどこだ? 病気を飲まない自分というものが、本来の自分である、などというのは妄想ではないのか。むろん、薬を飲んで性格を改善させた自分というものが本来の自分であるわけもない。本来の自分などというものはどこにもない。

 

だったら、どんな手段であれ、この地獄の社会に適応するようにした自分が、より生きやすく、幸福に違いない。この地獄に適応して生まれてきた人間はそのまま勝手に生きればいい。そうでない、生きづらさを感じる人間は、そんな性格とっとと捨ててしまったほうが得策である。もしもそれがラムネ菓子みたいなの飲むだけで済むなら、なんとも簡単な話じゃないか。

 

まあ、そこまでよく効く薬なんてあるわけでもないが。

 

それでも、おれのような性格の破綻した、明るく生きられない、精神疾患者は、よりよい薬を求める。自分と同じ双極性障害の人間の言葉を、ネットでたくさん、本当にたくさん見てきた。そのなかで、「もっと気分があがる薬はないですか?」と医者に聞いて、「覚醒剤じゃあるまい、そんな薬はありません」と言われたやつの少なくないことよ。おれもその一人だ。

 

そして、「それは障害の症状じゃなくて、性格だよ」と何回言われたことか。しかし、飲んだほうが飲まないよりましだ。飲んでなかった子供のころ、これがあったらどれだけ助かっただろうか。

 

この世に生まれてきたこと自体が地獄だ。せめて少しでも苦しみを感じる時間が少なくなるように、不幸の総量が減るように、願ってならない。