映画『太陽』オフィシャルガイドブック

映画『太陽』オフィシャルブック

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ソクーロフの『太陽』にえらく衝撃を受けたので、安く売っていたガイドブックも買ってみた。インタビュー、評論文、座談会いろいろ。しかしまあ、あんまりその、天皇を語るのに敬語使ったりしないのか、普通。正直、前の感想文もどう書いていいかさっぱりわからないので支離滅裂になった。それはともかく、ま、いろいろな見方もあるなあと。でも、あんまり史実云々と比べてあれが違う、これが違うっていうのは、劇場版Zガンダムに対して「これではZZに繋がらない!」って文句言ってるAmazonのレビューみてえで面白くないと思った。しかし、たしかにあのままではもうちょっと軍人としての天皇としてどう振る舞ってきたかわからないとか、そういうのはあるかも。あと、侍従がビビリ過ぎってのも、とくに老人の方はどれだけ長いこと仕えているんだろうかとか、そのへんはな。
天皇の内心を描いた、のだろうかどうか。そこもよくわからない。しかし、わかりやすいように心情を吐露させてしまうのも、最近の時代劇の主人公などがあまりにも現代的な文法で平和や平等を語ってしまうような違和感があるかもしらん。
ソクーロフがホモだとあって、それにはえらく納得できた。画面からにじみ出る何かがあった。
△日本人の歴史観、というか、実感としての歴史、日々の暮らしの中で歴史がどうあるか。それはどうやら、たとえばロシア人と違うのやもしらん。あるいは、中国人やアメリカ人とも違うのかも知れない。もし、我々が歴史を自分のものと思わずに生きているとして、はたしてそれが、古代以来だったのか、近代化以降なのか、先の大戦以降のことなのか、現代的な個人(利己)主義なのか。また、それぞれの文化・民族でどう違うのか。たしか、インド人もまた特殊な時代・歴史感覚があったのではなかったか。そこに共通の感覚を持たなければ対話は成り立たないのか。われわれは未来永劫誠実と見なされないのか。
△われわれ、といったが他の人のことを決めつけるわけにはいかないか。俺は俺という個人が膨大な血統とそれが生きたあらゆる時代のあらゆる環境のあらゆる因と縁の果であり、俺がたまたま生を受け今こうして生きている環境の連続性を有する過去のすばらしい遺産を享受して生きており、そうである以上同時に過去のすばらしいとは言えない部分についての負債について無視するわけにもいかないとは考えるが、じゃあお前、お前がスーパーで買い物をするとき、競馬新聞とにらめっこしているとき、コンドームの精液だまりを指でつまんでいるとき、そういう感覚とともにあるかといえばそういうこともなく、歴史との因縁とは無縁の心持ちであっさり暮らしているとしか言いようがない。歴史について考えようと思えば歴史について考えるが、それ以外でいったいどのように。『ジョン・レノン対火星人』に出てきた「すばらしい日本の戦争」(人名)みたいな感じだろうか。
△祖父母より先の来歴についてはほとんど知らず、何を背負うのか、誰が書いたストーリーを背負うのか。ほぼ単一民族として、だいたい似たような百姓同士が交配を繰り返してきたがゆえに、それぞれの過去の物語性に欠けるところがあるのだろうか(皇統が大きな物語を背負ってきたのか? しかし、たとえば江戸やそれ以前の天皇や皇室が一般庶民からどう見られてきたのか、よくわからない)。
△この本には天皇が映画やテレビでどのように描かれてきたかという一覧などもあって興味深い。あるいは、天皇、皇室を巡る表現について。深沢七郎の『風流夢譚』の名もあった。最近、名前を見たぞ。そうだ、島尾敏雄の『硝子障子のシルエット』の単行本に挟まっていた創樹社のチラシ(なんというのだろうか、こういうのは)の中にあったんだ。ぜんぜん関係ないけど面白かったから引用しよう。深沢七郎・対談集『盲滅法』書評より、とある。書いたのは花田清輝

●名言 
 作家とは、小説を書いて家をつくる人のことだと深沢七郎はいった。名言である。三島由紀夫のつくったデコレーション・ケーキのような家をみて、なるほど、かれは作家であるとわたしは感心した。もっとも、家といっても、自分の住むようなケチな家だけが家ではない。深沢七郎自身、『楢山節考』という小説をかいて、中央公論社のビルをつくった。(同社の編集者が、わたしにむかって、そういったのである。)とすると、言葉の厳密な意味において、作家とは、小説をかいて、出版社のビルをつくる人である、ということになる。そして、そんな作家を大作家という。(もっとも、この大作家は、その後『風流夢譚』という小説をかいて、同社の屋台骨を揺すぶったが、このビルは、依然として、健在である。)

 これが書かれたのは1972年前後。中央公論社も今は存在しない。楢山節考ビルはいつまで健在だったのだろうか。