おれが競馬をやめる3つの理由


 おれは、競馬をやめることにしたのです。いや、競馬をやめてしまいました。もちろん、「競馬なんて金輪際やらん」と日曜の夕暮れに吠えていたおっさんが、次の土曜の朝には須弥山のてっぺんにいて1レース未勝利戦の検討をしているなんていうことは珍しくないです。俺も何度もそう愚痴ったりしてきたものです。そして、次の日曜の朝にはラジオで長谷川仁志の重賞レース展望とか聴いてるんです。もちろん、それなりに長く馬券を「控える」時期もありました。ひょっとしたら、「やめてしまいました」と言ってる今このときも、それにあたるのかもしれません。でも、今度ばかりはかなりやめてしまった感が強く、日記として書き留めておこうと思うわけです。あれだけお世話になった血統バイアスプロジェクトも解約してしまったわけですし(ステマでもなんでもなく、マジサンクスです)。
 まあ、似たようなことは何度も書いてきたような気はしますし、だいたい最後に馬券買った有馬記念からまだ1ヶ月なのですけれども。まあ、明後日馬券買ってても自分でも驚かないくらいの境地ではありますが……しかし、と。
 さて、おれが競馬をやめた理由は大きく分けて3つあります。3つとも完全におれの問題です。1と2は同根のものといっていいし、2は3とも別の部分でつながっている。

1.金がない


 これはかなり単純な理由です。いや、厳密にいえば東スポだって馬券だって買えます。だいたい、1レース100円から買えるし、なんなら新聞だって必要ありません。そしておれは、たった100円でも買えば、馬のかけっこにどれだけの面白さがくわわるかということも承知しています。
 もちろん、前提として絶対的な貧しさと将来への見通しのなさ、というものはあります。それが理由で希死念慮も年々高まり、ついには各種薬物のお世話になっているくらいです。ただ、客観的に自分の収入というものはおおよそわかっていますし、犬一匹助けられないロードバイクを買い、引っ越しをし、ともかく金がないというのはひとつの事実なのです。
 しかし、です。借金しなければ馬券が買えない、というわけではないのです。だから、わりと相対的な意味で、「競馬に費やす金がない」、「競馬に金を使いたくない」、「金使うほどの競馬ありや」というわけです。そして、これを自覚することが、おれは競馬をやめてしまったのだな、と思えるさらに大きな理由にもなっているわけです。やれるのに、やらんのです。
 去年も、だいたい毎月家賃と同じくらい突っ込んで、年間の回収率は95%とわりあいよかったのですけれども、次は100%超えだ、という気にもならない。そして、このところなにをしているかというと、本など読んでいるわけです。しかもそれが、買った本でなく、図書館で借りた本だというのだから、ここまで来たかというところでもあります。本すら買えないのに、馬券など買っていられないという、どちらが上でどちらが下かもわからないような心持ちです。
 しかし、べつに金のかかる趣味をはじめたのでもないのに、競馬が相対的に下がっていったわけですから、そこに理由というものがあるわけです。つまらなく感じられるような理由というものです。それが次の2つであって、あるいは1つの理由といっていいかもしれません。

2.クラブ馬を応援する気になれない

 これはもう、まったくまっ黒い嫉妬の感情なのですが、一口馬主さんたちのクラブ馬というものに、まったく思い入れが抱けないのです。むしろ、面白くない、というところまで来てしまっています。説明するまでもなく、今の競馬といえば社台グループなんかのクラブ馬全盛といっていいわけで、これが毎度毎度おおきなところを勝つのを見せつけられるわけです。そして、たとえ良いレースだと思っても、馬券を獲ったとしても、拍手を送りたくない自分がいる。これを発見してしまったのは、相当昔かもしれないし、けっこう前かもしれないし、最近かもしれないのですが、まあともかく、正直なところ、そういった馬たちの向こうに一口馬主がいるのがおもしろくないわけです。
 そう、べつに馬がどうということはない。ただ、そういう気持ちが強く感じられるようになってきた。これがなにか、自分の中の競馬のよいところまでスポイルするようになってきて、またそれを自覚することもおもしろくないわけです。

 象徴的だったのはオルフェーヴルです。何年かぶりに中央のG1レースを生で観に行き、皐月賞とダービーの二冠を制するのを目の当たりにしたというのに、まったく思い入れが持てない。ステイゴールドという、現役のころも知っている個性派の子ですし、兄もわりと好きだった。なのに、三冠、四冠といったところで、なにも感じない。それで、観戦記もこんなふうになったわけです。

 それで、なぜ感じないんだろうかとちょっと掘り返してみたら、「しょせん、誰かの馬じゃん」という、そういう気持ちが出てきたというわけです。無論、競馬場で走ってるのは誰かの馬なわけです。ただ、なんというのだろう、個人の馬主であるとか、あるいはオーナーブリーダーであるとか、そういった誰かの馬であることと、一口馬主の馬であるということは大いに違うわけです、おれの中では。
 端的にいえば、冒頭に述べたように嫉妬なわけです。どこか遠く離れた存在である個人馬主ではなく、ひょっとしたらそこのスタンドでサンデーレーシングの勝負服のレプリカシャツ着たやつが、オルフェーヴルならオルフェーヴルを一口持っているかもしれない(まあ、オルフェーヴルの募集価格考えたら、もうちょっとマシなところにマシな格好でいるかもしれないが)。なんというのだろうか、こちら側の誰かのものなのに、感情移入するとか、応援するとか、そういう気持ちをいだくことに、引け目もあるし、白けるようなところがある。しょせんおれが馬券を買って応援したところで、そいつらの馬なのに、と。もし、おれがその勝利を喜び、敗北を悔しがろうとも、一口持ってる人間のそれとは比べものにならないだろう、と。
 むろん、どこかの金持ちの個人所有馬こそその馬主のものなわけです。一ファンからは立ち入れないものであることには変わりない。ただ、なにかそこに馬主の顔があると、それもその競走馬を構成する一部と思えるわけです。競走馬というのは、野っぱらを走ってる野生のウマとはまったく別物であって、なにがそれを分かつかといえば、名前であり、記録された血統なわけです。大きく言えば人間との関係性の中でしか成立していないわけで、周りの人間込みで一頭のサラブレッドなわけです。そういう意味で、馬主も競走馬の一部といっていい。
 もちろん、貧乏人からすると、金持ちというのは面白い存在じゃないわけですね。でも、馬主というと、そこまで競馬好きなのか、いいじゃねえかという気にもなるし、また馬主それぞれの個性というものが、競走馬に現れていく。贔屓の馬主、というのも出てくる。むろん、競走馬を構成するいろいろの関係性や要素、血統から調教師、乗り役、毛色、馬名、なんでもいいですけれども、まあその中に馬主というのも入ってる。あっち側なんです、基本的に。
 それが、一口となると、ちょっとどんなやつが持っているのかわからないし、知りたくもないというようなところもあるわけです。むろん、トップクラスの価格の馬になると、個人馬主級が持っているのかもしれないし、そのあたりはわからないけれども(清水成駿JRAに「クラブ馬主の構成を公表せよと要求したら、個人情報だからという理由で却下された」とか書いてましたが)と、まあひょっとしたら、個人馬主の大金持ちほど遠い存在でない人間が持っているかもしれない。もっとあけすけにいえば、たとえば自分が大学を辞めないで卒業して、それなりの就職でもしていたら成りえたかもしれないレベルの人間が、一口持っているかも知れない、ということです。そこにはなにか目を背けたくなるものがあるわけです。フジテレビのアナウンサーになったあいつは、個人馬主になるのが夢とか言ってたけど、少くとも一口はいつでも余裕だろうというような。
 むろん、多くの一口馬主というのは、ある種の泥沼に入り込んでしまったような、馬券で負け続ける人間と大差ないようなろくでなしというのも確かでしょう。ある意味で、勝ち目のない戦いをしているし、華々しい社台なんてのもごく一部の話にすぎないかもしれません。でも、なんにせよ、やっぱり羨ましい。
 まあ、このあたりの、どこに出しても恥ずかしいような感情が、自分の中にわりと強く根をはって育ってしまっているわけです。いちいちおもしろくない感情と向き合いながら、勝ち目のない博打になけなしの金を突っ込み、だいたいおもしろくない結果が待っている。そればかりになると、ほんのたまにすばらしいなにか(ごく最近だとスノーフェアリーくらいか)があっても、基本的に続けようって気持ちはなくなってくるわけです。

3.日本競馬がやり込み過ぎた競馬ゲームに見える


 最後の理由は、わりと博打から離れたところにあるといっていいです。今の日本競馬が、おれにとっては競馬ゲームの飽きごろに見えてしまうのです。おれはダビスタから競馬に入ったわけだし、人生のそうとうな時間をダビスタや、ウィニングポストに費やしてきたのも紛れも無い事実です。そして、どうも、それらゲームの終盤というか、基本的に終わりはないのですけれども、牧場は最大級になり、G1は総なめになり、海外の大レースも勝ち、やることがなくなってきたな、という感じです。さっきは社台グループに感情移入なんかできないと言ったけれども、ゲーム的な見方をすると、もうプレイヤーである社台が、いろいろのライバルを蹴散らしつくしてしまった。サンデーサイレンス系統を確立させた。竜宮小町とはランキングでそうとう差がついてしまった。そういう感じです。まあ、一口云々と同時に、社台の運動会はやっぱりおもしろくねえやってのも確かにありますが。ただ、小島貞博の死(……これについてあらためて書く気力はないです。おれの個人史の最初のダービー馬はタヤスツヨシで、その鞍上は小島貞博でした)までそういう文脈で語られると、そこまで社台が悪いわけじゃねえだろうみたいな気はします。『血と知と地―馬・吉田善哉・社台』とか読んで思うに、社台だって戦ってきたわけですよ。ただ、勝ちすぎてしまうと、興行としてどうなんだということになるわけですけど。
 まあともかく、なにか惰性プレイに見えてしまうと。それで、すごい能力はあるけど、地方競馬場めぐりをさせて、どれだけ勝利数を重ねられるとか、そういう遊び方をしたりもする。スマートファルコンを見ていて感じるのは、なにかそのあたりです。

 と、言うまでもないですが、これはおれの人生にのみ根ざした競馬観、競馬歴史観で、だれと共有するとかいう話ではありません。言うまでもないが、スマートファルコン陣営がそんなつもりで走らせているとも言わない。ただ、おれが乗っかった日本競馬史の一部が、おれにそう感じさせたということです。対世界みたいな面でいえば、たまたまおれが競馬をはじめた時期、フジヤマケンザンが香港で勝ち、シーキングザパールタイキシャトルと来て、いろいろあってついにはヴィクトワールピサでしたっけ、そういうところまで出てきた。むろん、まだ凱旋門賞は勝てていないし、マイネルエナジーが英国ダービーを勝ったという話は聞きません。アメリカのブリーダーズカップだって勝てていない。
 でも、もうそれは個々の馬のタイミングの問題のようなものといっていいレベルに来ているのではないかと。これは過大評価しすぎといえばそうかもしれませんが、なんというか、夢物語、想像もできない話、ではないように思えます。なにせ、歴史は浅いとはいえ、世界最高峰級の一個を取ってしまったわけです。むろん、わざわざ外国のクラシックに出るか、というような面とか、そういう意味で現実的ではないかもしれませんが。いや、景気とともに日本競馬自体が停滞していく可能性だってあるかもしれませんし、気づいたら日本国からリストラされてるなんて可能性も皆無じゃないのですが。
 リストラといえばそもそもおれは南関競馬に入り浸っていたし、基本地方びいきです。が、やはりニートだからこそ平日入り浸れたという面もあるし、このところは南関のレベルもがくっと落ちたようで、地方交流見に行こうとも思えないわけです。実況も及川サトルじゃないし。でもまあ、ゴールドヘッドがいたあたりの南関、競馬体験の初期にあったあのころがおれにとっては最高で、今後はそれ以上を地方に見いだせるような気はしていないのが正直なところです。
 そんなわけで、なにかこう、見るべきものは見てしまった、というような気になっているわけです。繰り返して言いますけれども、これはすべておれという身の上のことです。サクラシンゲキの玉砕から競馬を見つづけている人が、まだまだリベンジは終わってないんだって思ってるかもしれないし、昨日競馬をはじめたやつが、かつてのおれのように、競馬という無限の沃野に輝くありとあらゆるものすべてを吸収しようと夢中になっているかもしれない。すべてのレースが待ち遠しく、見たレースのすべてが頭の中に記憶されていくような、あの瞬間の中にいるのかもしれない。おれはそれをくさすつもりは微塵もありません。むしろ、万が一こんなもの読んでいる暇があったら、競馬四季報でも読むべきです。競馬四季報が今出ているか知らないけど。

すべてのレースの終わりに

 と、つまらない話はここで終わりにしましょう。ともかく、今ちょっとおれは競馬する気になれないわけです。そう、競馬する気には。競馬するっていうのは、一応、自分の中で「馬券を買うことで参加する」っていう定義で、この定義を人に強いるつもりもまったくないのだけれども、ともかく、そういう状況なのです、と。なにかこう、おれは今、人生からわりと全力疾走で逸走しようとしていて、騎手がなんとかコーナーを回らせようとしている、そういう時期だと思っている。せめてそのくらいの希望は持ちたいと思っている。そして、それがいくらか貧しく、苦しいものであったとしても、きちんと立っているって実感のある人生、そういうコースにおれが戻れたら、そのときは競馬場で会おうぜ。

 困難と忍耐、屈辱と悔恨は、すべて、ここに集中される。十の場合の、十のそれぞれちがった疾走ぶり、レース展開、そして十の優劣を見せるタイムの変化を記憶しよう。毎レースの勝ち馬をかならず見る。それも遠くからではだめで、ゴールの近くにいて、勝った馬の気配、表情、脚の感じなどを徹底的に頭に叩きこんでおくこと。徹底的に。ゴール直前、騎手のもつ手綱は機関車のピストンのように正確に動いていなくてはならない。騎手は騎乗フォームを幾度も鏡にうつして最良のものを身につけようとする。ちょうど野球選手の打撃フォームのように、僕たちはそのフォームと手綱のピストン運動をくりかえし見て、脳裡に焼きつける。そして、そのために、生活のすべてを犠牲にすること。
 生活のすべて、と、いうことはないだろう。生活の苦しみというべきであろう。生活の苦しみだけが、僕たちの生活なのだから。
 食に恵まれず、金銭に乏しい日々の生活の中で、夜、寝られぬままに、僕は馬の気配を記憶によびさます。馬の気配というより、馬をめぐった空気のかがやき、土のにおい、芝の光彩をおもいおこす。そうした回想が、いつしか、僕の日々のすべてとなってゆくように、生活の重さに押しひしがれながら、僕はなにかに耐えつづける。苦しみは、年とともにふえ、眠れぬ夜の連続である。
「馬への恋情」虫明亜呂無野を駈ける光 (ちくま文庫)