おれは一日Excelと格闘をしていた。Excelは表計算ソフトだ。DTPに使うもんじゃあないのだ。それでもおれはExcelから正しいPDFデータを作るために……。
消耗したおれは、机の上に置いてあるコンビネーション・レンチを手にとった。クロムバナジウム鋼のコンビネーション・レンチ。買った覚えのないコンビネーション・レンチ。いつから机の上においてあるのかわからないコンビネーション・レンチ。……誰のだ？
しっくりくる重さ。心地よい冷たさ。穴に指を突っ込んでぐるぐる回したりする。うっかりiMacの液晶を叩き割る空想をする。おれは穴に指を突っ込んでぐるぐる回したりするのをやめたりする。やめなかったりもする。おれは消耗している。
おれは消耗したまま息を吸い、息を吐き、消耗したまま、息を吸うのを止め、息を吐くのを止めるのだろう。マイナス収支、人生。コンビネーション・レンチほどの価値もない人間。おれにはしっくりくう重さもない。心地よい冷たさもない。なにより実用性がない。
雨足が強くなってきて、安アパートに帰るのも面倒だ。物心と一緒に面倒臭さがおれのまわりに薄い膜を作り、あらゆることに取り組まず、気づいてみればこのありさま。それでもこないだの、あの誰が作ったか知らないが、とても酷いIllustratorのデータを作ったやつに比べたらマシだろう。
ただ、そいつがひょっとしたらIllustrator触って三日目の人間だとしたら、あと半年もしたら俺くらいにはなるかもしれない。あるいは半月。おれは正式の教育を受けていないし、実践的な教育も受けていない。その場しのぎでやってきた。ただし、Illustratorのデータだけは美しくありたい。デザインの美しさ？ かっこよさ？ おしゃれさ？ そんなもの犬にでも食わせておけ。データの美しさ。それだけがおれをうっとりさせる。整理されたレイヤー、シンプルで無駄のないパス、意味のあるアピアランス、一個一個が完結し、なおかつオブジェクトたちが躍動する……そんなデータだ。わかるか？ おれにはわからない。おれはいろいろのことで消耗している。
そうだ、おれはいろいろのことで消耗しているのだった。季節の変わり目で体調も悪い。アイマスのやりすぎで睡眠状態も悪い。酒も飲む。立派な不健康双極性障害。おまけにアロチノロール塩酸塩を切らせば動悸と発汗がとまらない。健康的な汗じゃない。
健康的な汗……ジプレキサが飲めなくなるのを恐れて、おれは少しジョギングを再開している。こないだなんて、一回走りに出て、同じ人間を三回追い抜いたくらいだ。……円周コースじゃない、たんに道順の妙……。おれのほうが美しいベジェ曲線を引いたのか、彼女の方が美しいベジェ曲線を引いたのか、おれにはわからない。
刹那の曲線を引いて、空にすばらしいヴェイパートレイルが現れるわけでもなく……。リラダンの栄光製造機？ ANT-20マクシム・ゴーリキー号？ 夢見る力もないおれには天の声だって聞こえやしないさ。さあ、iMacの電源を切ろう。雨の中、イヤホンから流れる音楽を頼りに安アパートに帰ろう。おれが音楽を聴くのは、雨が降って歩かなければいけないときだけなんだ。消耗したおれが、よれよれの線を引きながら、ずったらずったら雨の中を行く。
この夜はいかにも消耗している。
それだけのことだ。
