1999年の野村貴仁は15試合に登板して13回と2/3を投げた。16の三振を奪い、4つの四死球を与えた。防御率は1.32。屈辱の2年目とあるので、たった15回の登板では働いていないということになるのだろう。推定年俸は7500万円。2000年には500万円ダウンの7000万円。4歳年上の配偶者がいて、8歳になる息子がいた。愛車はソアラ。背番号は95。94は安原政俊という投手がつけており、96はルーキーの条辺剛がつけていた。野村貴仁の右側には捕手の村田善則がおり、その上には同じく捕手の村田真一がいた。監督は長嶋茂雄で背番号11は斎藤雅樹、背番号13は小野仁だった。背番号17、18、19に槙原寛己、桑田真澄、上原浩治が並んでいた。
1999年の清原和博は打率2割3分6厘、ホームラン13本、打点46であった。3億3千万円の年俸は2億6千万円になった。背番号は5。背番号6は川相昌弘で、「職人技まだまだ健在」と評されていた。一つ上の内野手は元木大介で背番号2。1999年の元木大介は打率2割2分9厘、ホームラン6本、打点34。年俸は据え置きの7500万円だった。その上には背番号00の後藤孝志がいた。
当時のジャイアンツの外国人投手にはチョ・ソンミンとチョン・ミンチョルがいて、ダリル・メイとバルビーノ・ガルベスがいた。外国人打者はドミンゴ・マルティネス一人だった。
3年目で25歳の高橋由伸は1999年に打率と打点でチームトップだった。松井秀喜は1999年に42本の本塁打を放ち、それは日本人の記録としては10年ぶりのことだった。松井秀喜の右上には渡辺政仁がいて「いよいよ15年目」で「後がない」と書かれていた。
以上、日刊スポーツグラフ「2000年プロ野球選手写真名鑑」による。