ぼくが「100円くれませんか?」と言われたときに言うこと

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金曜、夜、退社、100円ローソンで豆腐などを買おうと思い歩くおれ、呼び止める男。

「すみません」

呼び止める男、おれよりずいぶん背が高い。背が低いおれは見あげる。世間一般的に大柄といっていいように思える。チェ・ホンマンが一般的なサイズになった感じの大きさである。よくわからないたとえだ。その男、長袖の白いワイシャツに黒いスラックス、右手手首にはトライバル紋様のタトゥーが見えた。寿町というよりは伊勢佐木町日の出町系に思えた。おれは、道を聞かれるのだと思った。

「はい?」

男は言った。

「100円くれませんか?」

……?

「なんで?」

おれから出たのは疑問の言葉だった。なんでこの男は100円を必要としているのか。なんでおれはこの男に100円をやらなければいけないのか。

「食えていないんです」

男はそう言った。しばしの間があった。おれはなにも考えられなくなっていた。

「……ほかをあたってください」

おれはそう言って男から視線を切った。視線を切って100円ローソンに入った。100円じゃあ、消費税が払えないからここでもおにぎり一個買えないぜ、と思った。

100円ローソンで豆腐のほか東スポなど買って店を出た。出たところでおれは急に怖くなった。大柄で、刺青のある男に金を要求されたのだ、突然。それを無碍に断ったあとに、暴力が発生する可能性だってあったはずだ。もしも男が「もう、こいつに見捨てられたら、ボコボコにして警察のお世話になろう」などと思っていたら、どうなっていただろう。おれとて喧嘩になれば全身がボロボロになろうが相手の目を絶対に一つは潰してやろうという物騒な信念を持っているが、あの男に敵う感じはしない。よくもまあ、断れたものだ。カツアゲじゃないか。

とはいえ、一方で、100円出せなかった自分の不徳、というものにも苛まされる。おれは貧乏だが、「食えない」と言ってる見知らぬ男に100円出したからといって明日死ぬわけではない。なんなら1,000円渡したって、明後日飢え死にすることもない。情けは人のためならずとも言う。べつに、出してやったってよかったんじゃないのか。あの男、言ってる中身は無茶苦茶だったが、ヘラヘラしてはいなかった。真剣だったように思える。ひょっとしてメンタルを病んでいるのかもしれないが、真剣ではあった。

いったい、どうするのが正解だったのだろう。

Q1.黄金頭さんがこのやりとりで得たものはなんですか?

Q2.黄金頭さんがこのやりとりで失ったものはなんですか?

 

 みなさんは迷わなければ「聖道の慈悲」でいいわけでしょう。だけど、極端な例を言いますと、仮に、「アフリカの困っている人たちを助けるために一人10万円出してくれ」という人がいたとします。「これは善いことなんだから絶対出してくれ」って言われたら、「ちょっときついね、どうしようか」と思い悩むことがあり得るわけです。それに対して親鸞は、きっぱりと、「いいです、わたしは出せません。わたしはそれなら念仏でも称えます」と断ればそれでいいんですよ、悩むことはないんですよ、と言ってると思います。それじゃ、目の前で赤ちゃんがつっころばっちゃったら、知らん顔してこういうふうに言えばいいのかとか、目の前で人が溺れそうなっていたら、おれは知らんというふうにしちゃえばいいのかということになっていくわけです。

 「浄土の慈悲」はそういうことを言ってるわけじゃない。そういう時に、意識しようとしまいと、赤ちゃんを起こしてあげようとか、溺れているのを助けてあげようという行動が、考えなくたってふっと出ちゃうことがあります。そういう慈悲はいいんですよ、と言っているわけです。心から無意識のうちに助けたくなっちゃって、助ける。そういうことは当然なわけだし、おのずから弥陀の光に包まれる状態で称える念仏と同じでもって、おのずから助けちゃうということがあり得るわけです。それはいいことなんです。もし慈悲ということで思い悩むことがあるなら、それを悩むことはありませんよ、自分は念仏を大切にしますと言えばいいんですよって、親鸞はきっぱり言ってると思います。それはとても重要なことのように思います。その種のことは、現代でも親鸞が生きている時でも、我々は何べんでも当面する問題です。

吉本隆明「現代に生きる親鸞」 

 

吉本隆明が語る親鸞

吉本隆明が語る親鸞

 

 

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……確実に言えるのは、おれはこの境地に至っていないし、度量もないということではある。