缶コーヒーは虚しい

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缶コーヒーは虚しい。そう思う。「厳選した豆を使用!」、だろうが、「画期的な新製法!」だろうが、ドンキかなんかで安売りしている豆を買ってきて、自分で挽いて飲んだほうが確実にうまい。

むろん、人間いつだってコーヒー豆をガリガリやって、フィルタ用意して、熱湯をチビチビかけることなんてできない。おれだって、寒い道を歩いているときなんかの、自販機で買った缶コーヒーの温かみを知らないわけじゃあない。

それでも、だ。それでも、缶コーヒーは虚しいように思えてならない。缶コーヒーというか、新しい缶コーヒーが作られるその無駄ともいえる進歩らしきものが、だ。うまくいえないが、おそらくはおれなどよりきちんと勉強して、しかも理系で、ちゃんと就職した人たちが、しっかりした給与体系のもと、頑張って缶コーヒーの改良に情熱を傾けているということが虚しいのだ。

これからおれが言うことはつまらん。つまらんし、そんな世の中もつまらん。つまらんがあえて言うけれども、優秀な人が情熱を傾けて改良に取り組むなら、医薬品とか健康にいい食品とか、そういうものの方がよくね? と。どうにもおれにはそう思えてならない。たぶんおれは20年前の製法で作られた缶コーヒーも、最新の缶コーヒーも二重盲検でもされたらさっぱり区別がつかないだろう。それでも、新しい缶コーヒーは作られていく。

たぶん、だが、それが資本主義というものなのだよ、というところはあるだろう。よく知らんが、少しでも改良らしきものがされ、新しいものが世に出る、それによって市場がちょっぴり活発になって、余剰が生まれ、人々は豊かになる。革靴の中にビールを注いで、それを飲み干して、新しいコーヒーの宣伝という仕事が生まれ、その行為もまた金を動かすことになり、われわれは進歩していく。……の?

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あるいは、缶チューハイの「果汁0.1%」というのだって虚しい。0.1%だ。いったいどれだけこの缶チューハイの味や香りに影響するというのだろう。いや、まあ、この0.1%がなければ商品名に果実の名称が使えないとか、イメージイラストが使えないとかあるのはわかってるが、0.1ですよ、0.1。この0.1というのが、やっぱり虚しい。この0.1の仕事をしている人がいるのが虚しい。

……とか言ってるおれの仕事が虚しいかどうかというと、これがまあ人から見て缶コーヒーや缶チューハイに比べて、違わないどころか劣ってるに違いないわけであって、まったく人類は虚しいのであった。おしまい。