何をどうしたら人並みに生きることができたのだろう?

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いまどき「人並み」といったところで、世の中の七割とか八割の人に「ああ、人並みね」と了解される「人並み」などないのかもしれない。しかし、昭和生まれのおれにはまだ一億総中流の幻想が頭から抜け落ちておらず、マイカーやマイホームの夢を見ることもある。いまやマイカーもマイホームも夢のまた夢だ。

とはいえ、昭和の「並」にはとどかないにせよ、この平成の世(あと何年続くかわからないが……え? あなた知ってるの? 未来人?)でも、やはり「並」はあるだろう。「大盛り」でもなければ「特盛り」でもなく、「並」いうものが。「ミニ」だの「ハーフ」だのはヘルシーさを伴うのでなんだが、ともかく「並」はあるんじゃないのか。

というわけで、何をどうしたらおれは人並みに生きられたのだろう、こんな「ライス」だけの生活を送って、先の見えぬまま死ぬのだろう。おそらくは、ひとり自殺するのだろう。なにかが間違っていたのだろう。

どこかでひと踏ん張りするべきタイミングがあったのかもしれない。なんらかのチャンスがあったのかもしれない。ただ、おれにはそれがわからなかった。勝負に参加する前から終わっている。チャンスを見逃すまいと思うこともなく、ただただ無気力に生きている。アパシー、そしてディスチミア親和型人間。

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「おれの病前性格メランコリー親和型と言えるでしょうか? それともディスチミア親和型でしょうか?」

病院でかかりつけの精神医にそんなことを聞こうかと思っていた。が、それどこれではなかった。なにせおれはなぜか予約の際に「あ、血液検査もお願いしていいですか?」などと言ってしまったからである。十年ぶりに歯医者に行った勢いとでもいうべきか、調べてみれば二年ほど血液検査ひとつしていなかったのだ。その間に血糖値に問題が出て、おれの愛する抗精神病薬のオランザピンが禁忌になっていたらどうしよう? という話である。

それに、話すことがあった。

「最近、酒を飲むと気持ち悪くなるので、月・火・水・木は一滴もアルコールを入れないようにしているのです」とおれ。

「それは良いことです」と医者。

「でも、酒が入っていない夜は、暗い想念に取り憑かれ、動機が激しくなり、レキソタンを追加で飲んだりしているのですが、いまいち効かないのです」とおれ。

「ええ?」と医者。

「前回お話しませんでしたかね、薬の量なんですが、厚労省の指針が出まして」と医者、なにやら電話帳のように分厚い(いまどきの電話帳が分厚いか知らないが)冊子を取り出す。

「ああ、ベンゾジアゼピンの漫然使用の……」とおれ。

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(診療報酬に関わるのか)

「そうです、それです。だから、今最大量処方しているメイラックスレキソタン、それにアモバンの量を減らそうと考えていたんですよ。それで、お酒の量が減って、たいへん良いと思ったんですが」と医者。同じ説明を幾人もの患者に説明しているのであろう、鉛筆で下線が引かれたページを見せる。

「いや、お酒を飲まなくなって、自律神経も調子よくなってくるはずですから、その動悸や不安感も減ってくると思います。だから、レキソタンを……」と減薬の説明をする医者。

「そうですね、土日も酒が回りすぎてあまり飲めなくなっているので、量としては相当減っていると思います」とおれ。

「そうです、お酒減らすのは良いことです。……こうやって暗示をかけているんですよ」と医者。ネタばらしをしていいのだろうか?

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「それじゃあ、まず血圧測りますか?」と医者。

「血圧ですか? はい」とおれ。

左腕に器具をぐるりと巻き、聴診器を突っ込む。よく覚えていないが、下が60、だった。血圧は低いらしい。そしていよいよ血液検査……というか注射だ。おれがこの世で許せないのは鍵のかけ忘れたトランクと注射なのである。

「じゃあ、こっちの椅子に座ってください。顔は正面を向けて、左腕をこっちに」と医者。

もう、思い出したくないが、針を刺された。おれは右拳を握りしめ、棚のある正面から目をそらさない。今、どのような状態にあるのか? 血を抜かれているのか? なんなのか?

「抜くときちょっと痛いですよ」と医者。

おれは永遠のようにそのときを待った。

いつまで経ってもそれはこなかった。

「はい、終わってますよ、うわ、なんだこの腕の色は!」と医者。

見てみると、とっくに針などは抜かれており、丸型の絆創膏を貼られている。そして、おれの左腕は手のひらから肘まで妙な紫色になっていた。

「毒を打ったりしてませんからね」と医者。

「いや、注射が苦手で」と、汗がにじんだ右の手のひらを見せるおれ。

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いい絆創膏(よくわからないが、左の方に血が滲んでいるので貼る場所を間違えたのではないか?)。

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というわけで、わりと長かった診察は終わってしまった。酒抜きの不安感を埋める強烈な薬、あるいは薬の増量を望んでいたのだが、逆に減薬される始末である。まあ、レキソタン(と医者には言っているが、実のところセニランなのだけれど)5mgもいくらか余しているし、一ヶ月は様子見するか。なお、オランザピン(これも医者にはジプレキサと言っている。面倒だ。医者はジェネリックを信用していないようだが、おれは安価であることを信用しているのだ)はベンゾジアゼピンとは別系統のお薬なので変わらず。今日もおれは酒の代わりに薬を飲む。効きは弱い。

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なぜおれは人並みに生きられないか、という話だった。病前性格、というか、おれはずっと双極性障害2型という「状態(state)」であったのか? それとも、ある種のパーソナリティ障害という「性質(trait)」であったのか? よくわからない。ただ、三つ子の魂百まで、おれが快活な人間であったことはないし、社交的な人間であったこともない。もし、あったとしても、幼稚園という集団生活に入ることによってスポイルされはじめ、小学校に上がるころには立派なおれになっていた。それでも昭和の子であるおれは、たいした努力などしなくても小学校の勉強など苦にしなかったおれは、将来マイカーとマイホームを手にするだろうと思っていた。新しいマイホームでなくとも、鎌倉の一軒家の土地と家を相続できるものだと思っていた。水泡に帰した。

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結局のところ、生まれてきたのが間違いであった。人間社会に、少なくともこの時代のこの国には向いていなかった。これに尽きる。いつの時代もおおよその人間のサンスカーラは思うがままにはいかない。それはわかっている。それでも、客観的に見た豊かさというものが厳然として存在し、それが「大盛り」であったり、「並」であったりするのは否めない。そしておれは、牛丼屋のバイトが誤って床に落としたもう食べられない牛丼みたいな人生を送っている。生まれてきたのが、間違いであった。おれにはその軌道を修正するだけの才覚もなければ、努力もなかった。酒のない夜を、こうして愚痴って、睡眠薬を飲んで寝てしまうだけ。もっとも、減薬して眠れるのかどうかもわからない。眠ることすらできない欠陥人間、せめて楽に死にたいものだ。夕日に向かって歩いていって、ふっと消えてしまうように……。

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採血時に「そういえば先週、十年ぶりに歯科健診したら虫歯なかったです」と上の空で言ったら「それはすごい」と言われた。