完全におれは辻潤みたいだ その3 玉川信明『ダダイスト辻潤』を読む

 

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ダダイスト辻潤 (1984年)

ダダイスト辻潤 (1984年)

 

辻潤の書いたもの二冊に続いて、辻潤について書かれたもの、評伝である。正直、辻潤が書きのこしたものには自伝や回顧録が多いので、評伝を読んでいても「あれ、ここ読んだかな?」とか思う部分が多々あった。とはいえ、この三冊にてある程度は辻潤という人物をつかむ取っ掛かりができたような気はしている。そしてまた、この評伝には自分の知る意外な名前もひょいひょい飛び出してきて、「うおー」と勝手に興奮したものである。

さて、評伝言うからには、幼少期のことから始まっている。辻潤の出自は都会のけっこうなお金持ちであった。江戸―東京の日本的な部分がそのコアにあるという。が、時勢から没落していく。

辻潤はは社会条件そのことにおいて没落の人となる。太宰治風にいえば「斜陽」の人―そもそも生まれた当初から、落日の運命に見舞われた下降人(デカダンス)だったといわねばならない。そこから没落に伴う随伴現象としての絶望・憂愁・咏嘆・苦悶・自卑・劣等の念は必然ということになり、連鎖現象としての反抗・諧謔・隠遁・逃避の思いもまた自然な道筋ということになった。

車輪の下の青春」

おれも斜陽の人である。たぶん。そういう人間はこういう道筋をたどるんだろうか。でもって、お坊ちゃんの辻潤はこのころ尺八とであっている。

 この頃である。辻が初めて、尺八の専門家として身をたてたいと思ったのは……。辻はそれ以前にも以後にもおよそ何かになりたいとか、なってやろうとか思ったことのない人間である。たった一度だけ、その時にプロの尺八吹きになろうと思った。

車輪の下の青春」

傍点のかわりに太字。おれはかかりつけの精神科医とこんな会話をしたばかりだ。「なにかなりたいものとかなかったの?」、「なかったんですよ、それが!」。

でもって、青春の辻潤キリスト教社会主義にふれて育っていく。時流である。そこでこんな名前が出てくる。

 そこからして彼のとった社会主義は、多分に精神主義的でロマンチックなものであったことは自分でも認めている。そうしたタイプの革命家として、熱烈に応援した人物に『三十三年の夢』、『狂人譚』、「革命評論」の宮崎滔天をあげていることでもわかる。

 宮崎滔天は若い頃に洗礼を受け、ついでクロポトキンバクーニンに教えられて海外に飛び出した。そしてフィリピンの独立運動を助け、康有為・孫文らの中国革命を援助して、そのいずれにも失敗したとみるや、桃中軒雲右衛門に弟子入りして、一介の浪花節語りとして歩いた人である。この情熱と落莫の宮崎滔天を彼は熱烈に愛していた。

車輪の下の青春」

フハッ、宮崎滔天! たしかに辻潤は運動家といえるような存在じゃなく、その活動力のようなものは宮崎滔天と比べ物にならないが、晩年なんかを考えると重ね合わせてもよい人物じゃないか。死んだときの年齢も近い。思いもよらなかった。

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そんな辻潤。ともかく自分の面白いと思うものしか手を出さなかった。というか、ほとんど読書と、これ、である。

 人も知るごとく、辻潤といえば〔酒〕である。自分でも「道楽と云えば私にとって先ず読書と酒とである。それを取り去ると私の生活がゼロになってしまう」(「どりんく・ごうらうんど」)といい、読書と酒は自分の「第二の天性」とまで公言している。

「趣味のプロフェッショナル」

ただ、元から酒豪でもなく、ちびちびと少量のアルコールが入っていないと物狂おしくなるタイプだったらしい。って、その感じ、おれもそうだよ。辻潤は大酒を飲んで大暴れすることもあったが、その少量を入れ続ける感じ、よくわかるわ。いやはや。

そしてまた、本書を読んでいると「読書」、「酒」のほかに「女」を挙げてもいいかもしれない。もちろん伊藤野枝の存在が大きい。が、その後、伊藤野枝の影を求めて、「永遠の女性」とまで言い切った女性もいる。

 「永遠の女性」の名前は野溝七生子という。

「白蛇姫の御前に」

フハッ、『山梔』の野溝七生子

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この二人、周囲からもデキていると思われていたらしいが、辻も振られたと書いているし、著者が野溝さんから直接関心は持たれていたのは事実だが、はっきり断ったことを聞いている。いやはや。

まあ、それはともかくとして思想のあたりについて触れると、辻潤は「僕はソシャリストでも、アナキストでもない」と言い切っている。あくまで唯一無二の辻潤、なのである。「ブルジョアは外道でプロレタリアは餓鬼だ」といい、「ブルジョアに反抗するマルクスエピゴーネンは中々盛んでありますが、本尊のマルクスがそうであった如くやはり質に於いてあまりにフィリスチンなのはまことに残念であります」とか言ってる。国家に対して一番の敵対者は個人。個人以上におそろしい敵はいない、というのがかれの考えなのであった。「人は弱いから群れるのではない。群れるから弱いのだ」といったのはだれだっけ。

とはいえ、まったく唯我独尊で生きていたわけでもないし、生きられるような人でもなかった。こんな名前も見受けられる。

日本を去る時送別会の席上、アナーキスト石川三四郎が「辻君には何もいうことはないが、フランスに行ったらまあせいぜいぶどう酒でも存分に呑んできて貰いたい」といっていたのが想い出された。

『ベッドの巴里徳置員』

文壇でそれなりの地位を得て、「読売」の特派員というか留学生というか(といっても、もう中学生くらいの子がいて連れて行ったのだが)そんなんでパリに行った。行ったはいいが、行ってしたことといえばひたすら中里介山の『大菩薩峠』を読むことと、水代わりにガブガブとワインを飲むことくらいだった。ほとんどゴロゴロしていた。そのうえ、帰朝したのちも、渡欧についての原稿をろくすっぽ書かなかった。書けなかった。……これって。

 そもそも辻潤を精神病理的にみた場合、専門家からどんな診断が下されるのか知らないが、筆者は明らかに循環性精神病、一般にいわれる躁鬱性行の病いの持ち主だったと思われる。躁鬱性、つまり躁状態鬱状態が周期的に繰り返すのである。

『ベッドの巴里徳置員』

 これは双極性障害躁うつ病)の当事者であるおれ、それに関する本をいくらかは読んできたおれにも、「あ、そうか」と思える意見である。震災後のダダ最盛期に躁状態のウェーブがきて、パリ行きで沈んで、帰国後しばらくしてまた登って……。おれは慢性的な軽いうつ病と見分けのつきにくいII型だが、辻潤クラスとなるとI型じゃないだろうか。女性へ猛アタックしたりするあたりも、雑誌を発刊するのに日曜日も含めて一日十六時間働いちゃうあたりも、「これ翻訳する!」となると一気にやってしまうあたりとか、これなんじゃないか、そんなふうに思えてくる。もちろん、だんだんおかしくなっていった辻潤斎藤茂吉に診断されたり、いろいろの「脳病院」を渡り歩くことになるが、今より双極性障害に理解がなかった、というか、そういう診断すらあったかどうかわからんが、そうだったんじゃないの、と思えてならない。もちろん、アルコール依存症やほかの病と併発していたのだろうけど。

 でもって、双極性障害I型の人間には謎の魅力がある。だからこそ、なんとなく見捨てられない仲間もいれば、信者のような読者もいた。して、こんなエピソード。

 辻潤の若い飲み仲間に、本郷の出版屋の息子がいたが、彼はそのうち自殺した。その知らせを聞くや、辻潤は「僕のものを読んで自殺など考えるのは、どんでもない間違いだよ。僕は、毎日を愉快に生きていくように考えて書いているつもりなんだよ」としんみりつぶやいたという。

「どうすればいいのか?」

 友人・知人の自殺や発狂、これについて己を貫いたと賞賛すらしている。しかし、だからといって自殺を推奨しているわけじゃない。

「実は僕の方から言えば自殺などしようと思ってる人間が読んだら、死なずにすむと考えているのだ。自分は自分の人生観を極めて露骨に表現している。僕は自分の抱いているニヒリズムのお蔭で行きていられると自分では考えているのだ。僕の愛読者には病人や貧乏人や片輪者や、低人が多い、―僕は寧ろそれを誇りにしている。ほんの僅一時間でも三十分でも僕の書いた物を読んで慰められ気が転じたとすれば、僕のミッションは果たされている」

 「どうすればいいのか?」

辻潤にとって、人生は明るく楽しくしているのが当然であって、「芥川君の死んだ時も、平常辻潤とでも付き合って酒でも飲んで馬鹿馬鹿しいことでも話あっていたら……」という具合である。

この享楽主義の背景にはスティルネルの思想があって、「何もならないことには頭を使うな」、「理性的に考えようとすれば死ぬより手がなくなる」とか言っていたらしいが、おれにはスティルネルよくわかりませんでした。

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とはいえ双極性障害の人間が貧困のなかにあって酒浸りでは狂う。ついには警察の御用となったりする。一方で佯狂(詐病)とも思われたりしてい て、そのあたり微妙。とはいえ、「狂人のふりをして……」というやつで、佯狂といえども狂気には違いない。

と、ここでまたこんな名前が出てくる。

 しかしこのアルコール性幻覚症という説に強い反対意見がある。それはフランス文学者・作家平野威馬雄氏の主張する麻薬中毒説である。

 おお、平野レミのお父さん。ふむふむそれで。

彼にいわせると、あれは私のコカインに習ったせいだというのである。

 フハッ、「私のコカイン」。それでWikipedia見てみたらこんなんある。

平野威馬雄 - Wikipedia

大学在学中の1922年秋、風邪による鼻詰りの臨時治療薬として級友S(文芸評論家安成貞雄ならびに歌人安成二郎の弟)からコカインを教えられたことがきっかけで、重度のコカイン中毒となり、次いで抱水クロラールにも手を出し、15年間薬物漬けの日々を過ごす[23]。1930年頃には、松沢病院閉鎖病棟に自主入院[24]、このとき入院患者の一人である「葦原天皇」こと葦原金次郎にも会っている[25]。

フハッ、レミパン! しかしなんだ、名前くらいは知っていたが、中区老松町育ちってこの本その老松町にある図書館で借りたもんだし、なにより逗子開成という我が母校の生徒であった(そして相撲部にリンチにされそうになって相手の片目をくり抜いているとかいうハードボイルド)というじゃあないの。なんというか、世界は狭い。

まあいずれにせよ、酒かコカインかの要素があったにせよ、辻潤自身の内的世界、幻想世界というものは深まっていったわけだ。いやはや、しかしすげえ時代だなあ。でもって、辻潤は「自分は天狗だ」といって二階からユーキャンフライしたりしている。

そしていよいよ辻潤も晩年に向っていく。こんな手紙を残している。

 とにかく生きているのはやりきれないことだが、死ぬ覚悟がつかない限りなんとも仕方ない。ヨケイなことをなるべく考えないでなんとかして楽に生きたいと思っているんだが、自分を没頭させる仕事をしているのが一番いいんだが、それがない場合には困る。僕のようになにもかもツマラナクなってしまってはおしまいだ。やはり一種の病人なのだからやむを得ない。

「晩年の辻潤素描」

 これなどもいかにも双極性障害の人間が躁状態を自らの理想状態(というか平素の状態)と思う感じが出ているとも思えるが、物悲しさがある。

と、思ったら、最後にまた弾けてじゃんじゃん物を書いたり、放浪したりしているので、わりとしぶとい。若いころから寺にこもることもあったが(なんというか、この当時の文人が身を寄せる寺のありようってよくね?)、仏教っぽい方向への傾倒も見られる。手紙から。

盤珪禅師の<不生>の説教でも……」

「一つの魂の勝利」

フハッ、盤珪禅師出てきた!

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上にリンクしたスティルネルの感想文にも盤珪の字があるように、おれは盤珪禅師が好きなんだよ。辻潤も読んでいたのだなぁ。

と、さらにまたこんな人物の名前が。日本が戦時下になり、「文学者愛国大会」が開かれるようなご時世である。

 そうした百鬼夜行のような世の中にあって、辻潤はどうしていたかというと、死ぬ一年前くらまで毎週のように会っていた金子光晴によると、「充分に生きる張りあいある人生をおくっていた。」

 自由が丘のアパートの、西日の当たる、ひどい焼け畳の上で、夏でもあることだし、二人は裸になってだべりあっていた。

 「江戸っ子のまけず嫌い、江戸っ子の気弱さ、江戸っ子のみえ坊、江戸っ子の味覚のクセ、はだかで寝ながら話をきいていると、江戸のお店の旦那衆とかわりがなかった。それからもっと、江戸っ子の矛盾、江戸っ子のおやじ気質――彼は、むかっぱらを立つ。いたって条理は立っているのだが、ときどき、キイッと、曲がり角の自転車のような急ブレーキのようなきしみを立てる。よっぱらいの妻君のなれ染め話を、十度もきいた。」(「江戸っ子潤さん」)

「一つの魂の勝利」

フハッ、金子光晴! 金子光晴というと……もう日記を書く以前に読んで多大なる影響を受けた詩人である。とはいえ、詩というよりは『詩人 金子光晴自伝』、『どくろ杯』、『ねむれ巴里』、なんど読んだことか。そして、その金子光晴から金を借りることができたというだけで、辻潤は凄いといえる。

森三千代と同棲している金子光晴と云う詩人は僕を尊敬してくれて、ゆくと小遣いをだまっていてもくれる。

そしてそして、こんな名前の登場である。

 以来、各々が各々を認めること大いなるものがあったが、晩年辻は二ヶ月くらいに渉って、稲垣足穂の侘住まいに足繁く通っている。当時足穂は、牛込横寺町の路地裏の三畳に住んでいた。そのふとんも何もない部屋へ、新宿から夜更けに、それも一時、二時頃にトボトボ歩いてやってきた。そして出る話は、やれ茶碗むしで一杯やりたいの、板ワサがどうの、いったい鮨というものは……というような話ばかりである。しかし毎晩決まったようにニ、三冊仕入れてきては、狭苦しい部屋の隅に積み上げている。その古本の英書は、どれも無気力な一隅の耽美主義文学と哲学ばかりであった。

 「一つの魂の勝利」

フハッ、稲垣足穂! 稲垣足穂というとおれのベストテンにはだいたい入る作家じゃないの。ベストファイブかもしれない。その足穂もついには辻潤を拒絶する。が、「唯美主義者の結果はかくの如しで、かくの如くでなければ本物だとはいえない」と書いている。

ついでにもう一人、こんな名前も出てきた。

 辻がこれだけ読めば、禅が大いにわかるといってるものに鈴木大拙の『無心ということ』があるが……

 やっぱりこないだよんだ「鈴木大悟」って、「大拙」の間違いだったんじゃねえの! もう鈴木大拙といえばおれがおおいに影響を受けた(以下略)じゃないの。

宮崎滔天野溝七生子盤珪禅師、金子光晴稲垣足穂……もう、おれが好きだったものがバンバン出てきた。好き、というものは知らんところでつながっているものだな。しかし、たとえば金子光晴稲垣足穂あたりを読んでいて辻潤の話が出てきたこともあったろうに、見過ごしていたんだな。

して、おれも眠くなってきたので辻潤にも死んでもらう。悲惨な飢えや病魔と戦って、人に看取られて、という死に方ではなかった(飢えはあったに違いないが)。普段と同じように寝て、起きてこなかったら死んでいた。戦時下の、質素すぎる葬儀をした。享年六十一。世は本土空襲の始まったころであった。

 ……辻も何度か書いているように、この世の中は己に忠実に生きようすればするほど、生活に困窮するようにできている。

 辻潤には、世人に比して特別に高望みがあったわけではないのである。

「自分は出来るだけ明るい気持ちをもって、なるべく他人の邪魔にならないように、自分の好きな事をして、出来るだけこの世を楽しみ、セイゼイ長生きをした上で死にたいと思っている」(ひぐりでいや・びぐりでいや」)ぐらいのことである。しかしそれが実は大変困難なことであった。辻はこの単純にして穏当過ぎる願望のために、ついに生きる術を失って、窮死に追い込まれてしまったのである。

 

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