すてきだな、再び

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「中学時代から大好きな言葉やフレーズをノートに書き留め、15冊以上になりました。その言葉たちが、人のものと自分のものと区別がつかなくなり、こういうことになってしまいました」

 謹慎開始時にも思った(id:goldhead:20041201#p4)ことだけれど、もしライターの不始末を被らされているならば、なんだか一人矢面に立たされて可哀想だな、とは思う。が、勝手な話だけれど「本当に本人が書いた」と考えた方が面白いのはたしかだ。
 しかし、「その言葉たちが、人のものと自分のものと区別がつかなくなり……」というのは、なかなかの境地と言わざるをえない。さまざまな物を吸収し、自らの血肉として新たな物を築く。それはなかなかできることじゃありません。ただ、自分の中で区別がつかなくなったところで、出てきた物がクソの中の消化不良のコーンみたいに分かりやすかったのが問題だったのだ。
 解決策は二つある。一つは十分に消化して、顕微鏡で分析しなければわからないほど消化する方法。しかしこれは、おそらく偉大なアーティストたちのみが為し得るところで、果たして安倍嬢にその才があるかどうかはわからない。
 ならばもう一つの方法をおすすめしたい。出てきたのが未消化であっても、それがタンザニアの奥地でしか採れない果物だったら、誰にもそれを未消化と気が付かない。すなわち、もっとマイナーな物からパクればいいじゃないですか、と。
 しかし、情報社会と呼ばれるこのご時世、マイナーな物を探すのも一苦労だ。日本がダメなら外国だ、と洋楽あたりからやったんじゃすぐにばれる。もっと遠くに逃げて、ベラルーシで人気のバンドとか、スワジランドで人気のアイドルあたりを狙わなきゃいけないそれでもユビキタスの手からは逃れられないかもしれない。ならば時代を超えて、アラム語で書かれた詩であるとか、古代インド神話をネタ元にしたらどうだろう。
 ……などと長い長いパクリ元への旅をしたところで、個性的な何かや目新しく見える何かがつくられるだろうか。たぶん答えはノーだろう。人類の長い歴史も十五冊のノートも大して違いはない。過去現在未来、人類は似たような色恋をして、セックスをして、生きたり死んだりして、それらについて似たような詩を書いてきた。俺はどうもそんな風に思うのだけれど、はたしてどうだろうか。人間に出来るのは、せいぜい食べる前にミキサーにかけるか、食べた後にミキサーにかけることくらいじゃないかと思うのだ。けれど、出てきたクソが……、比喩を誤った。最初から材料と料理にでも例えていれば、「出てきた料理が美味しければ、その素材などあまり気にならないのだ」などと書けたものだが、果たしてこれはどういうことだ。俺の海兵隊をどうするつもりだ。いやはや。