『トポフィリア 人間と環境』イーフー・トゥアン

 トポフィリアとは著者の提案したトポス(Topos)とフィリア(philia)を組み合わせた造語。すなわち、私が桜木町のトポス(ダイエー系列)を愛するようなことをいう。違うかも知れない。この本は、このところ自分が小説しか読んでいないから、小説以外を読もうと思って手にしただけである。私は著者や著者の学問上における立場など、一切の知識を持たない。私は社会学、地学、地理学、民俗学いずれにおいてもちゃんとした教育を受けていない人間なので、引用部分以外についてはあまりにもデタラメな可能性が高い。引用最後の数字は章とページ。自分のための覚え書きである。

すべての科学は、学問的でなければならない。しかしすべての学識が、厳密に科学的であるとは限らない。……周縁のテラ・インコグニタには、道具と人間主義の精神によって耕されることを待っている肥沃な領域があるのだ。 ジョン・カートランド・ライト

 第一章序論前の引用。訳者あとがきによると、この著書は科学的厳密さを欠くという指摘もあったようだ。だがしかし、トポフィリア(場所愛)と名づけられながらも、時代から時代、場所から場所へ、さながらロード・ムービーを見るような知的冒険の書であった。読み物として面白い。

・自然環境であれ、人為環境であれ、環境というものに対する我々の見方とはどのようなものなのだろうか。
1−15

 これが主題とも言えようか。一章は序論、二章は五感など知覚について、三章は象徴体系とコスモロジーについて。

空間構成における「中心」と「周縁」の観念は、おそらく普遍的なものだろう。あらゆる地域の人々は、自分を中心におき、外へ向かって価値が小さくなる(多かれ少なかれきちんと定められた)同心円的なゾーンにおいて、空間―地理学的空間やコスモロジー的空間―を構成しようとする。3−57

 著者は天津生まれの元中国人(アメリカに帰化)であるが、中華思想は別に中国に限ったことではない。われわれとて「日出づる国」「ひのもと」に住むのである。ブルーハーツだって歌っている。「僕が生まれたところが 世界の片隅なのか 誰の上にだって お日様は昇るんだ」と。

自己中心主義は、人間の性質における強い傾向であるが、それが完全に達成されるのは稀な場合にしかない。というのも、人は明らかに、生物的な生存と心理的な慰めを他人に依存しているからである。4−62

 ジャイアンおよびジャイアニズムは稀な場合と言えよう。彼ならば生物的な自存もできそうである。

自民族中心主義(集合的自己中心主義)は、完全に実現されうる。個人と異なり、集団は自給自足的である。少なくとも、自給自足という妄想は維持されやすい。〜(略)〜「われわれ」は、中心にいる。人間は、中心から遠ざけられるにしたがって、人間の属性を失うのだ。4−62

 他民族などを「人間扱いしない」のは、世界史の教科書を紐解かずとも、わりあい実感できる例かもしれない。少なくとも人類については「人類皆兄弟」という一見能天気な円盤の上に載せておかなければいけない。異星人が出てきたらどうするのか?フィリップ・K・ディック「ウーブ身重く横たわる」参照。

優越性と中心性の幻想は、おそらく文化の維持に必要なのであろう。現実との容赦ない遭遇がその幻想を粉砕する時には、文化そのものが衰退する傾向がある。4−64

 中小ネットコミュニティにおける対2ちゃんねる文化の活動を思い浮かべずにはいられない。必要なのは優越性、中心性そのものでなく、その幻想、フィクションの維持なのである。
 例外として侵略者コルテスとアステカ文化など。これはアステカの神話の中にあった自分たちより上位のものについて、侵略者をそれと見なしたために起こったという。果たして、我が国においても白人の特徴のある部分が、我々の美的価値観に偶然一致してしまったのではないかと思うが、さて。

アジアは、ヨーロッパ人の観点から消極的に定義されていた。そのため、近東・中東・極東があるのだ。アジアは、決して実在していなかった。アジアの人々は、民族のタイプや、言語や、宗教や、文化において極めてさまざまであった。アラブ人やインド人や中国人やバリ人は、ヨーロッパ人に言われるまでは、彼ら全員がアジア人であることを、知らなかったのだ。アジアは、ヨーロッパという自意識の外に広がる影だった。しかし、ヨーロッパは、その影に見かけの実現性を与える力を持っていた。4−80

 われわれがサッカーのワールドカップにおいて、「アジアなのか?」と思ってしまう国々と戦わざるを得ないのは、ヨーロッパの自意識の結果であった。また、そのヨーロッパ人の自意識を逆手にとって「八紘一宇」と「大東亜共栄圏」でレパルスとプリンス・オブ・ウェールズを沈めてやったのがわが国である。

日常生活ではわれわれはしばしば無意識のうちに、肉体的な外観から性格と才能を推測している。それはとても自然な行為なのだ。5−88

 科学者はこの点についての研究を避けるという。本書には戦前の学者による分類、すなわちヤセとガチとデブとそれぞれの気質について引用されている。そういえば、作家の見沢知廉ASIN:4101473218)も刑務所に入ってみて、大昔の学者が論じた「顔のタイプとその犯罪傾向」について「そのとおりじゃないか」と思ったというようなことを書いていたっけ。

シモーヌ・ヴェイユは、この世界で、自分にぴったりしたニッチ(居場所)は、鉄道の駅の何もない待合室であると主張している。5−97

 私はこの世界で自分にぴったりしたニッチは、大井競馬場の吹きっさらしのスタンドだと主張している。

少女がデザインする環境は、たいていの場合、壁のない家具の配置か、あるいは積み木で造られた単純な囲い地のどちらかによって表現される家のインテリア(内部)である。少女が作る場面では、人々と動物の大部分はこのような内部や囲い地の中におり、人々や動物は、主として静止した状態にいるのだ。少年の作る場面は、精巧な壁のある家か、装飾や大砲を意味する突起のあるファサード(正面)のどちらかである。そこには高塔がある。少年の構築物では、人々と動物の多くが囲い地や建物の外にいて、街路や交差点に沿って動く物体がもっとたくさんあるのだ。高い建造物を使い、少年は崩壊という趣向で遊ぶ。廃墟はもっぱら男性の構築物なのだ。5−99

 上は子供に積み木遊びをさせたときの男女差について。男の子には崩壊と廃墟志向があるのだ。宮台真司もそんなことを書いていたっけ。果たして、フィギュア萌え族(と書くと語弊があるか)が「終わりなき日常を生きる」ための「世紀末の作法」を身につけた、静止を好む人たちなのかどうかは知るところではない。

「文化」と「環境」という概念は、「人間」と「自然」がそうであるように、重なり合っているのである。6−107

 葦原の千五百秋の瑞穂の国に住むわれわれにとって、なかなか実感しにくい話かもしれない。われわれがイスラムの文化を奇異と思うとき、彼らの背後にある灼熱と極寒の砂漠を考慮にいれなければアンフェアである。

来訪者による環境の評価は、本質的に審美的なものである。6−115

明らかに、来訪者の判断は妥当なことが多い。来訪者は主に、新鮮な見地(パースペクティヴ)をもたらす点で貢献している。人間は非常に順応性が高い。美しいものも醜いものも、自分の世界で生活することを学ぶにつれ、心の中の無意識に沈んでしまいがちなものなのだ。6−117

 日本の文化は再発見されるのが得意技の一つである。浮世絵にせよアニメ絵にせよ。行きすぎると面白くないが、素直に耳を傾けて損はないだろう。

これら(山、砂漠、海)の手に負えない自然の側面に対して、人間は感情的に反応する傾向があるのだ。6−125

 建築や都市、農場は我々の望みが反映されるが、そうはいかない自然もある。わかりやすく大きな例で言えば富士山なんかもそうだろう。かつての大戦において、原子爆弾の投下場所として富士山の名が挙がったという話をどこかで読んだ覚えがある。日本人が国の象徴とまで思う山を変形させれば、戦う意欲を無くすだろうという発想だ。小声で言うけれど、破壊された富士の姿を思い浮かべ、そのSF的光景にしびれたものである。原爆はどこにも落とさないでください。

中国人の山に対する態度は、時と共に変化した。〜畏怖と嫌悪感とが結びついた宗教的な態度から、審美的な態度に変化しているのである。それは、崇高という感覚から、絵のような美への変化であり、山をリクリエーション資源としてとらえる現代的な評価への変化である。6−127

 時代は違えどもヨーロッパでも同じ流れがあったとのこと。日本でも同じだろう。

自然環境と世界観は、密接に関係している。世界観は、もしそれが他の文化から導入されたものでないならば、必然的に、人々の社会的・物理的環境のなかの顕著な要素から構成される。7−139

 例としてコンゴ熱帯林のピグミーの話が挙げられている。普段、近距離のパースペクティヴの中で暮らすため、数マイル先のバッファローを見て、虫と認識したという。これは世界観というより知覚の話だが、われわれとて似たような熱帯林の中にいないと誰が言えようか?

われわれは、生活様式の最も対照的な違いは、無文字部族と都市化社会のの市民との間にみられると仮定しがちである。しかし実際には、まったく異なった自然環境に住んでいる「原始的な人々」の間の対照性も、それと同じくらい大きいかもしれないのだ。7−142

 「環境」と「文化」の重なり合いの大きさ。

美術史家であるサー・ケネス・クラークは、視覚的な喜びのはかなさを強調して次のように言っている。「人が、オレンジの香りを楽しめるよりも長い時間、純粋な(いわゆる)美的感動を楽しむことができるとは、私には思えない。私の場合には、オレンジの香りを楽しむ時間も二分以下であるが」。それ以上の時間、偉大な芸術作品を注視するためには、歴史的な批評の知識が価値を持つのだ。

 カート・ヴォネガットの、彼の兄との芸術についての見解の相違。ヴォネガットは作品の背景に作者があって価値があると主張していた(絵を主題にした『青ひげ』ではなく、『タイムクエイク』(ASIN:4150114331)あたりだったろうか)。ただ、こうなると美術館に行くのにも予習が必要な気になってしまい、どうしたものかと思う。これは個人的な話。

どれほど強烈であっても、もし何か他の理由で目を向け続けるのでなければ、風景の評価もまた、はかないものなのだ。8−161

 主題はこっち。

景観の理解は、人間的な出来事と記憶が混じり合う時、もっと個人的で、もっと長続きするものになるのだ。またそれは、審美的な喜びが科学的な好奇心と結びつく時、はかなさを超越するのだ。8−164

 いくら名高い勝地であれ、美的体験を伴うとは限らない。‘勝地本来定主無し’(白居易)どころか、トポフィリアにおいてはありふれた景色が時として強烈な認識、突然の啓示となるのだ。しかしまた、白居易の言うこともトポフィリア的である。

子供は自然を楽しむとき、目で見ることにほとんど重要性をおいていない。8−166

 すなわち、水や土の感触、草や花の香りなど、身体的感覚の混じり合いの中に浸るという話。これは大人になると失われていく貴重な体験なので、子を持つ親は子供の服の汚れなど気にしないことである。

親しさは、軽蔑を育まない時には愛情を育む。〜人間の所有物は、人格の延長である。それを奪われることは、つまり自分自身の心の中で、人間としての価値が下落することなのだ。8−171

 スリッパ、衣服、そして家。最近、三宅島への住民が帰島がはじまったというニュースがあった。どこだか忘れてしまった(自アニュF経由だったと思う)が、それについて「田舍者が田舎にこだわるのに金を出すのは税金の無駄」というような記述を読み、なんとも寂しく思ったものだ。だが、たかが金銭的なことで被災した同胞の人格を否定するような動きと見ると、寂しく思うどころか恐怖し、警戒する必要があるかもしれない。

ヨーロッパに近代国家が誕生して以来、感情としての愛国心は、どこか特別な場所と結びつくことはまれになった。愛国心は、いっぽうでは誇りと力という抽象的なカテゴリーによって喚起され、他方では、旗のような特定の象徴によって喚起されたのである。近代国家は大きすぎ、国境はあまりに勝手に引かれ、あまりに雑多な地域が含まれているので、経験や親密な知識から生まれるある種の愛情を集めることができないのだ。現代人が克服したのは距離であって、時間ではない。人生の時間のなかで、人は今や―過去と同様に―世界の小いさな片隅にしか、深く根を張ることができないのである。8−173

愛国心は、ある人がもつテラ・パトリア、すなわち出生地への愛情を意味する。8−173

愛国心には二種類ある。地域的なものと、帝国的なものだ。地域的な愛国心は、場所の親密な経験と、善いものは脆いという感覚に基づいている。われわれの愛しているものが、持続する保証はないのだ。帝国的な愛国心は、集団的な自己中心癖と自惚れによって育まれる。〜この感情は、具体的な地理的事実とは何の関係もない。8−174

 私は二種類のうちの前者、愛郷心のようなものには納得できる。後者については、それを声高に叫ぶ人たちの言葉の空々しさを感じることが多いように思う。

おそらく、いくらか理想的な未来では、われわれの忠誠は、親密な思い出のある故郷と、その正反対の極にある地球全体にだけ与えられるであろう。8−176

 この、ともすればSF的な発想の飛翔は好きだ。ただ、その先にスペースノイドの叛乱が起こったりもするので、人類はなかなか大変なのだ。

田園は、「中間的景観」(レオ・マークスの用語)である。農業的な神話では、それは、都市と原野という二つの極で釣り合いを保っている理想的な人間世界である。8−188

 田園暮らしを理想とするのは、紀元前の中国にもギリシアにも見られたという例が挙げられている。田舎暮らし志向は都市の成立と共にあった!

われわれがもつことを選んだ刺激(愛や価値)は、個人の気質や目的、あるいは、特定の時代に働いている文化的な力に応じた偶発的なものなのだ。9−193

 トポフィリアとは偶発的なものなのだ。

ヨーロッパでは西暦一五〇〇年から一七〇〇年の間のある時期に垂直的なコスモスという中世的な概念が徐々に廃れ、世界をますます世俗的に表現しようとする新しい方法に道を譲った。垂直的な次元は、水平的なものに置き換えられつつあった。コスモスは、回転しない平らな自然の断片に置き換えられつつあったのである。10−219

 田村隆一の詩を思い出す。すなわち「言葉のない世界」(http://www.kcn.ne.jp/~tkia/trp/033.html)である。そういえば、田村隆一には『僕が愛した路地』(かまくら春秋社)などの著書もあり、トポフィリアな人である。他に鎌倉についてのトポフィリアとして、澁澤龍彦や私が挙げられる。私はどうでもいい。

中世の大聖堂は、経験されることを意図されていた。それは信仰深い注意力とともに読まれるべき内容の濃いテキストであり、単に見られるだけの建築的な形態ではなかったのである。実際、いくつかの形態と装飾は、全く見えなかった。それらは、神の目のために作られていたのである。10−233

 ただちに思い出すのはレイモンド・カーヴァーの短編「大聖堂(Cathedral)」。これは盲人に大聖堂を説明する話、あるいはされる話だったか。よく覚えていない。

場所を限定しようとするすべての努力は、無秩序から秩序を作り出そうとする試みである。10−246

二つの領域が存在する。上なる領域と下なる領域が。上なる領域は超越宇宙?もしくは陽から由来し、パルメニデスの形態?であって、知覚力、意志を有す。……「Tractates Cryptica Scriptura」

都市は、肉体を維持するために必要な絶え間ない労苦や、自然の気まぐれを前にした無力感から市民を解放してくれる。われわれは今やそれを軽視したり、あるいは忘れがちであるが、これこそ都市が達成したものなのだ。11−251

 「都市の空気は自由にする」。世界史の教科書以来何年ぶりかに見た言葉だ。物質的環境の欠陥ばかり見て、それを非難するばかりではいけない。注意すべき陥穽。

都市計画はそれ自体、コスモスの二次元的な模型であったが、都市と天とのつながりは、テラス・塔・柱・ジッグラト・アーチ・ドームのような建築的な垂直性の象徴という形での補強を必要としていた。11−278

 アニメ・漫画・ゲームなどの都市にもよく見られる景観だ。それもまた男の子の趣味なのだろうか。東京の都庁舎は強力なツインバイブだ。

人々の生活様式とは、彼らの経済的・社会的・超俗的行動の総体である。これらは空間パターンを生みだし。つまり、それらは建築様式と物質的環境を要求するのだ。そしてこれらのものは、ひとたび完成すると、今度は行動のパターンに影響を与えるのである。12−286

 生活様式というと、経済・社会ばかり思い浮かべてしまうが、超俗的行動をも含んで生活なのだ。文化は織りなされる。

われわれが都市の街路を利用する時間は、街路に対するわれわれの認識と評価に影響を与える。伝統的な都市の視覚的な壮麗さと比べて、建築が密集した現代の都市域の美的な貧しさについては、多くのことが語られてきた。しかしわれわれは、夜、どのようにしてそれを判断するだろうか?12−288

 日が暮れたってそれが何だ。日が落ちてこそサーチライトも廻るし、イルミネーションも照り映える。「わたしの耽美主義」稲垣足穂より。同じく『天体嗜好症』(ASIN:4309402259)収録の「宝石を見つめる女」から次のような一文も。

また真暗な晩、電車のポールの先から零れ落ちる緑色火花のしずくを眼にとめる時、私は、これこそ会心の光であり色であると受取られずにはおられません。神戸の山ノ手における初夏の晩などに、パシッ! とスパークして、近くのプラタナスや煉瓦塀が真青に照らし出される一瞬、なにか危機感と共に、私は摩訶不可思議の啓示がそこによみ取られるように覚えます

大部分の人々は、都市のスケールの両極端、すなわち都市全体と自分が住んでいる街路の二つを、名称によって示すことができる。しかしそれとは対照的に、その中間の区分については、地区や隣近所の名称をすぐに思い出せる人がほとんどいないくらい曖昧にしか知覚されていないのだ。13−314

 横浜に引っ越して一年経つが、都市全体も自分が住んでいる街路もあやふやな私である。しかし、長年住み続けた鎌倉については、まさに上の言葉が当てはまろう。
 この十三章はアメリカの都市を主題としている。ここで思い出したのが藤原新也の『アメリカ』(ASIN/4087484122)、『アメリカン・ルーレット』(ASIN:4795804834。「来訪者」としてこれほど高性能のレンズとペンを備えた存在は稀有だろう。

都市振興主義は自分に都合のいいイメージを作り出すことを目指し、複雑な事実をほとんど考慮しない。しかし、効果的であるためには、イメージは事実の上に何らかの基礎を持つ必要がある。13−334

 これは「南セントレア市」のことを述べているに違いない。テレビのニュースで見るに、地元のお爺ちゃんやお婆ちゃんたちは、たった五文字の横文字を把握できていなかった。

絵葉書はイメージ力についてわれわれに何かを語っている。おそらくそれは、地域の実業家による価値づけを反映しているのだ。13−335

 絵葉書の写真の意味するところは、日本もアメリカも変わらないらしい。いや、向こうから入ってきた文化かな。それはそうと、思い出さざるを得ないのがみうらじゅんの提唱する「カスハガ」(ASIN:4063300501)である。日本の地方の実業家の価値観は大丈夫か。まあ、アメリカみたいに無個性になるよりは笑える分いいかもしれない。

隣近所に関する都市プランナーの観念は、居住者のそれとはめったに一致しないのである。13−345

 彼らは「来訪者」としてやって来る。のか?

都市の住人は、都市の便利さや家の質よりも隣近所の質に高い価値を置く。13−356

 いま私が住んでいるのは横浜市中区山手である。他に二件物件を見た上で決めたのだが、「磯子より山手だべ」という発想があったことは否定しない。

下からの眺望とは、狭く、荒涼とした、険悪な世界のものである。いくらかでも活力のある人々は、それはたいてい若者であるが、空想の中への逃避あるいは暴力行為によってそれを埋め合わせようとする。13−359

 具体的な例→関内関外日記。

豊かさは、地域的な違いを、万国共通のスタイルをもったきらめきによって覆い隠してしまう傾向がある。13−359

 幸せな家族はいずれも似通っている。だが、不幸な家族にはそれぞれの不幸のかたちがある。「アンナ・カレーニナ

郊外は一つの理想である。〜いっぽう、ごく最近造られた「サバービア(郊外居住者)」という言葉は、この理想をあざけっているように思われる。14−370

 「...there's time bomb in the high rise, there's blue suburban dream, will i see you up in paradise, or have you come to catch me?」"stay together" suede
 ごく最近、とはいえ原著は七十年代のもの。その土地の状況から日本と欧米の「郊外」の意味するところは違うだろう。日本の郊外も、スプロールされた都市の一部という印象がある。もっとも、それは私が人口の多いあたりに住んでいるせいで、地方となるとまた別なのかもしれない。

まとめ:久々に小説以外のまとまった文章を読んだが、これ自体かなり優れた読み物なのだ、ほんとに。難しい言葉も出てこないし。あえて引用はしていないけれど、古今東西のさまざまな文化、生活についての記述も飽きさせない。小説などからの引用も多く、これはなかなかに楽しめる一冊。