キリストの侵入

 土曜日の日記で自分がカラオケ嫌いであることについて書いた(id:goldhead:20050409#p2)。「俺に歌わなくていいという人がいたら、それが‘エロパウロ’であれ神だ。」と書いた。‘エロパウロ’というのは、言うまでもなく今話題の聖神中央教会金保牧師のことである。信者(元信者だったかな)が、テレビのインタビューでそう呼ばれていたことを告白していたのである。自分がいかにカラオケが嫌いか、というのを強調するのに、最低最悪な存在すらカラオケよりマシだというレトリックを用いたかった。そこで、強姦ロリコン牧師に御登場願ったわけである。
 ところが、だ。日曜日のTBS「サンデージャポン」を見ていて腰を抜かすほど驚いた。金保牧師の講演ビデオを紹介していたのだけれど、そこで次のような発言をしていたのである。すなわち、「カラオケに行く人は精神異常者だ」と。これでは、比喩として用いた「‘エロパウロ’であれ神」が、比喩でなくなってしまう。私は「カラオケが嫌いなので、カラオケを悪く言う金保を支持する者」ということになってしまう。ああ、あるいは金保牧師は本当に創造主であって、このようなことを見越していたと仰られるのか。
 話は変わるが、桜花賞の後、酒に酔いながらホルヘ・ルイス・ボルヘスの『異端審問』(ASIN:4794924453)をパラパラめくっていたら、あとがきに次のようなボルヘス自身による訂正があった。<神は二冊の書物を作った。一つは聖書であり、もう一つは世界である>。この考えをフランシス・ベーコンに帰した旨を書いた一編があるが、それは誤りであり、中世ではそれ以前から見受けられた考えであった。それについては○○を参照せよ、と。あとがきしか読んでいないのだけれど、このベーコンならぬ中世一般の考えを読んでただちに思い出すのはディックの晩年の作だ。そこではトーラーの形をとっていたと思うが、西洋社会にあってザ・ブックたる聖書の存在の大きさを思わずにはいられない。俺はきちんと聖書を読んだことがなかった。
 たった二本の発泡酒にノックアウトされた私は、本を読むこともままならず、ベッドの上で頭痛を抱えながらゴロゴロしていた。ピンポーンとチャイムが鳴った。インターホンに出てみると、女性の声がする。「クリスチャンの○○と申しますが、聖書の中から日常生活に役立つ知識をお教えしているんですが」「……いや、結構です」。
 まったく、なんというタイミングだ。蛇は誘惑する。しかし、聖書に書いてある日常生活に役立つ知識ってなんだ? ニンニクの皮の上手な剥き方とか書いてあるのか。いや、書いてあるのかもしれないな、なにせ、ザ・ブックだ。しかし、三十代、いや四十代だろうか、素敵な声の人だった。顔は見られなかったが、きっと美人だろう。そう確信した。私は、十二歳の少女より、天気が悪くなってきた日曜の夕方に、新聞の勧誘ですら敬遠するアパートに来る四十女の方が好きだ。もっとお話しすればよかった。無料で聖書が貰えたかもしれない。そんなことを考えながら頭は痛い。ベッドから降りてテレビをつける。巨人―中日戦。七時前なのに六回裏だ。五時にプレイボールだなんて聞いていないぞ。キリストが侵入しているのだ、間違いなく。