『知の編集工学』松岡正剛 その4

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 俺が書いているこれは、日記だな。けど、はてなダイアリーがブログなので、ブログなのか? ブログらしい感じはしないが。というか、ブログらしさすらよくわからない。かといって、ブログというものに全く興味がないかといえばそうでもなく、とはいえ身をもって実感しているわけでもない。なにか自分の周縁にあるがよくわからないものという印象。しかも、日々新たになっていき、高度なやりとりが積み重なっていくブログ論やネット論についていけるわけもない。どうも俺はネットで日々更新されていく速度が苦手だ。
 で、印刷媒体である本を読んでいたら、ブログのことを指しているような記述が出てきた。1996年の本だから、えーと、かなりの先見か。や、というわけでもなく、人間というメディア自体についての記述で、ブログをロボットが書いているわけでもないので、まあ何というかそういう感じだ。第五章257ページあたりから。

 私たちは、ある事態の動向や出来事を判断するときに、まず自分が所属している環境や立場をまっさきに考える。そしてそうした自分に関係が強そうな動向や出来事であれば、そのことを主語的に判断している。「うちの会社はそこが問題なんだよ」とか「それは僕の責任じゃない」とかいうふうになる。
 逆に、自分に関係がなさそうな動向や出来事ならば、無関心になるか、あるいは対象的になる。とくに若い世代では「関係ないよ」とか「別に」といった言葉がひんぱんに使われる。

 前者が主語的・主体的、後者が客体的・対象的な立場とのこと。このどちらでもない‘「間」を占める概念’であるところの<エディトリアリティ>がこの章あたりで述べられていることの本当の主題。それが、次。

 ところが、自分に関係なさそうなのに自分の周囲ですでに話題になっている事柄には、主語的でも対象的でもない態度に入ってしまうことがある。例の「ニューヨークのワニ」や「口裂け女」にたいする態度はこういうものである。噂が燎原の火のごとく広まるときの構造は、たいてい多くの人々がこの中間項(第三項)の態度に入ったときなのだ。

 「燎原の火のごとく」という語を見て思い浮かんだ光景(光景なのか?)こそが、このところネットで引き起こされるいくつかの「祭り」だった。ちょっと前に話題になっていたこちらの記事(http://arena.nikkeibp.co.jp/coltop/20051101/114106/)で取り上げられていたような祭り。どこかの誰かがネットの片隅で見つけたものを「これ!」と指さす。そこから、コミュニティからコミュニティ、ブログからブログへ止めどもなく広まるさまは、まさに「燎原の火のごとく」じゃないかと。もっともその場合、「口裂け女」は「非常識・非道徳的な言動」(を公開してしまった人)ということになろうか。

 これは、出来事の話題に対して人々がサブジェクト(主体)にもオブジェクト(対象)にも所属しなかったことを意味している。また、これらの話題や出来事を左から右へ、右から左へ媒介するスルー・コミュニケーターの役割だけをもったことを示している。この媒介的な立場はまことにメディア的であって、編集的である。なぜなら、そこではかなり無責任な粉飾という編集が加えられることが多いからだ。

 ブログないしブロガーというのは、おおよそこのスルー・コミュニケーターということになるのだろうか。話題が「口裂け女」みたいなうわさ話ならば、そこに無責任な粉飾が行われてもたいしたことはない。しかし、「祭り」的になると、どうにもネガティヴな感情のようなものが誘爆していって、なにやらすさまじい負のエネルギーが発生しているように見える(うーん、こういうのは中間的態度なんだろうか? 疑似主語的態度?)。
 あと、ブログというか、インターネットは、情報を発信できる距離と範囲のわりに、どうにも無責任さが保証されすぎているメディアのように思われる。かといって、俺はネットの非匿名化や免許制が面白いとも思えない。匿名で無責任な声は、短く狭く。責任が求められる声は、実名で広く。そんな感じに棲み分けできないのか。しかし、その棲み分けのできなさこそがネットなのかしらん(この棲み分けじゃ、ネットが無い状態、そこら辺の会話かマスメディアかって関係そのものか。いや、そこら辺の会話で匿名は成り立ちがたかったか。匿名同士のある程度まとまったやりとりができるのはネットの特性かしらん)。しかし、現状はいびつなもののように思えて仕方ない。本来小声のアングラであるべきものが、一番強く大きくなっているような、そんな感じだ。
 で、どうしてこういうことになってしまうのか。

私たち自身がじつは新聞的であり、ワイドショー的な存在であることが多いのだ。

 ある種のネット世界の住人たちは、マスコミを‘マスゴミ’と揶揄したりして、かなり毛嫌いしているようだ。しかし、根っこのところで同じところ、主体的でも対象的でもない中間項の中、ある種無責任な編集的態度の中にあるのかもしれない。そして、流れの中でリアルでありながらも実際のリアリティから縁遠くなっていく情報。メディアスクラムコメントスクラム(こういう新しい言葉一つにもさまざまな背景があるらしく、門外漢が気軽に使っていいものかよくわからない)の根っこも一緒。そんなふうに考えてしまってもいいんだろうか? この著者の考えでは、人間は普段の心境においても「編集的現実感」の中にいることが多いという。また、前の章にはこんなことが書かれていた。

 私たちは、他人によって編集されたまことしやかな内容をうけいれやすい生得的能力を潜在させている動物である。また、それゆえに、どんな物語にも誰かが賛同してしまう構造感覚が隠されていると思うべきなのである。

 これが本当だとすれば、このまことにやっかいな物語の編集が、いまや物語の語り手であったマスメディアばかりでなく、そこかしこで行われているというわけだ。このろくでもなく小さな日記すらそれに違いない。この危うさに関する自覚、そのあたりはなにやら難しそうな話だ。だからやっぱり俺は小声の匿名が好きだな(匿名とそうでないものの中間というか、そういうものもありそうだが)。

 それにしても主体性とはずいぶんつまらないものである。
 いたずらに肩肘が張っているし、相手には優位に立たなくてはならず、もっと厄介なのは首尾一貫性にいつもびくびくしていなくてはならない。

 みんな自らの整合性、首尾一貫性が嫌いで、だから小声が集まって大声になったのか?

著者のブログに関する記述はこれ(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1075.html)。やはり、ブログの広がりに大きな意味を見てはいないようだ。