『マリリン・モンロー・ノー・リターン』野坂昭如

goldhead2006-05-01

 いつのことだったか、たった一度だけ野坂昭如が「マリリン・モンロー・ノー・リターン」という曲を歌うのをテレビで見たことがあって、もちろんそれは遠い過去の映像だったのだが、細身のスラックスに身を包み、厭世的に歌いとばす姿にひどくしびれたことがある。たった一度のその映像だけで今でも不思議と口ずさめるのだから、その印象の強さもわかろうというものだが、もとより野坂昭如の歌手活動どころ著書すらあまり読んでおらず、バラエティ番組に出る彼の姿を見ては思い出すくらいだった。
 思いがけず古本屋で見つけたのは、同名の小説単行本で、表紙には横尾忠則が手がけたマリリン・モンローの千手観音が笑いかけているのだから買わないわけにはいかず、以前読んだ一編の短編もたいそう印象に残っている(id:goldhead:20050513#p4)おり、昭和四十七年初版のこの本は俺にとって掘り出し物だったといえるかもしれぬ。
 それはそうと、野坂昭如の本は父親の古い本棚の隅に何冊かあって、『エロ事師たち』や『軍歌・猥歌』などの字面見れば、その方へは関心の高まる中学生の時分など、勇んでのぞき見たりするも、その文体の密度に到底かなうはずもなく、それ以来読む機会もなかった。この『マリリン・モンロー・ノー・リターン』に収められた主人公たちの青年期で描かれるエロへの関心も、男なら誰でも共感できるところがあるかもしれぬ、いや、この主人公たちはどちらかといえば奥手のタイプで、プレイボーイのようなのはおらず、どこか女性に対してもぼんやりとした白昼夢的なものを懐いた連中で、巻末作者の言によれば、いずれも自分自身の、私小説のようなものというのだから、それもまた野坂の性格なのかもしれない。
 性格といえば、やはりこの主人公たちの子供時代、大人や教師の顔色を見て、きちんとそれに対する答えを嗅ぎ取って、うまく演技していくような、あるいは内向的な性格、あるていど恵まれた立場やチャンスにありながらも、何らの信念もなくそれを放り出して、ぼんやりしながら、悪い方へ悪い方へずるずる転がっていくさまなど、まるで俺のことじゃないかと叫びたくなるようである。
 そうはいっても、話は昭和の頃からやはり戦中戦後と幻想を振り返る話で、平成のこの世の不況とどこか通じるのかどうかしらぬが、いちおう俺は昭和にちょうど十年生きた人間であって、昭和の振り返る起点に対してどこかしら懐かしさといったらおかしいが、郷愁に似たなにかを感じ、それは幼い頃からその頃の漫画、東海林さだおや何かのサラリーマン四コマなど読んできたせいかもしれない。しかし、この構図で思い出すのは、後藤明生の『挾み撃ち』(ASIN:4309403255)であって、戦中派や戦前派などといってもスタイルもさまざまで、もとより俺の直接知る時代の話でないにせよ、その辺に何かひかれるところがある。ひかれるついでに、「マリリン・モンロー・ノー・リターン」の収録されたCDであるとか、あるいは肝腎の、といっていいのかどうかはしらないが、『火垂るの墓』などを読んでみたくもなり、まったく俺はこの日本のオールド・パンク(チャールズ・ブコウスキーがこう称される)に唐突にはまりそうな予感もあって、少しどうしたものかという思いもあるが、馬券が好調な内に済ましてしまえと思うのだった。