温室育ちのおれに道は残されていない


 高学歴だ、低学歴だと喧しい。頼むから静かにしてくれ。いや、おれがクリックしなければいいだけの話だ。だが、なぜか見てしまう。もうそろそろ終わりか。
 おれはどんなところからそんな話を見ていたのか。上の方から見ていたといっていい。そんなおれの学歴はなんだ。高卒だ。
 と、書くと正確さに欠けると抗議するものも一人か二人はいるかもしれない。この日記にすら三人か四人の読者はいる。実はもう少し行った。大学中退だ。慶応だ。卒業さえしていれば、おれの立ち位置ははっきりとしていたろうし、その上きちんと就職さえしていれば、何事か言えたりもしただろう。実際は違う。おれが電話をかけている場所はそんなところじゃない。
 祖父京大出の博士、父早稲田の政経、幼稚園のころから人間というのは小学校、中学校、高校、大学に行くもので、その上おれなぞは大学院にまで行くに違いないと信じこんでいた。算数と理科が壊滅的にできないので、中学受験には滑り止めでしか入れなかったが、中高一貫の私学には入れた。ほぼ大学全入時代と信じて疑わなった。あとはどこに行くかだけだ。
 中学に入って最初の頃だったろうか、担任の教師が言った。「おまえたちは今後六年間、温室の中で育てられるといっていい。だからといって、わざわざ温室の外を覗いてみたり、出て行ったりする必要はないのだ。親がせっかく用意した環境を十分に活かせ」と。以下、教師の「おれは昔悪かった」話がつづいた。暴走族に入ったり、野菜を食べてバンドをやったり、乱れた性生活をおくったなど。男子校に入ってしまった生徒一同、温室を破ってでもセックスの方に行きたくなったんじゃないのか? まあともかく、「外」の悪い連中とつるむ必要はない、というのだ。ちなみに、その教師は受験時に改心して慶応という大学に入り、教師になった。
 温室云々、おれには何を言いたいのかがわかった。おれはその「外」とア・テストから逃げて私学を志望したのだ。小学校の連中とは話があわなかった。おれが見下していたのもわかったろうし、おれは嫌われもしたし、いじめられもした。不登校にもなった。ともかく、さらに三年なら三年、公立中学校でそいつらと一緒にいるのはどうしても嫌だった。一方で、中学受験予備校で一緒だったやつらとはいくらか話が合った。そっちだと思った。
 さて、今のおれに話を戻す。おれはもう三十も半ばで、伴侶を得て、子供がいて、マイホームのことなど考えていてもおかしくない年齢だ(二回りも年上の女と十年以上つきあってるのはともかくとして)。それがどうだ、マイホーム? 経済的余裕がどこにある。おまけに、これといった技能がない。飯を食うためのこれといった技がない。履歴書に書けるのは名前と住所と生年月日と……履歴書って書いたことないんだけど、ほかになにを? まあいい、ともかく、経済的余裕とかいってる場合じゃなくて、これでもいささか自分には恵まれた今の環境がなくなったりする可能性が決して低くない。要するに、今も金銭的余裕とは無縁ながら、「外」じゃないってことだ。ただ、それもなくなる。
 なにかをするには遅くないかもしれないが、なにかを始めるには遅すぎる。おれにはすべきことも、できることもない。
 おれは親が事業に失敗して家族離散ののち、優雅なひきこもりのニート世界から、わけもわからず単純に働いて働いてここまできてしまった。働くことに意義もくそもなかった。お好み焼きの材料を買うためだ。流されてきただけだ。それだけだ。そして、その場すらも失う可能性は高い。よほどすばらしいスピードでこの国の経済がよくならない限り。
 それでも「生きねば」といわれたら、そう、おれは温室の外に出なくてはならない。おれにはそれが恐ろしい。おれが外見的に温室の外らしくなり始めたのは二十を少し過ぎてからで、三十を過ぎてさらにピアスを二個追加などしたが、それがなんだというのだ。おれが二十過ぎてピアスの穴を開けたのは、「おれには真っ当な就職の道などないだろう」という一つの決意でもあった。三十過ぎてのそれは、ポイント・オブ・ノー・リターンの証。ついでに死ぬ前に、マリリン・モンロー・ノー・リターンの刺青でも入れてやろうか。
 だからといって、内面はどうかというと、これが軟弱ないじめられっこの小学生みたいなののままだから仕方がない。いくらかは双極性障害やそれに連動するパーソナリティ・ディスオーダーのせいかもしらんが、いかにも怯えきっている。客観的に見て高卒の、とくにこれといった技能のないヤンキーであろうとしながら、仮にそういう世界に放り込まれたら一も二もなく音を上げる。車の話? おれがCOLNAGO ACEを個人輸入したときにウイグル先生相手にやりとりした話か? ギャンブルの話? ベラミロードをこの目で見た話でいいのか? 江戸川競艇の枠なり進入の話か? パチンコとなるとさっぱりだ。麻雀も打たなくなって久しい。手本引きのルールは知らない。
 ……いや、そんな話じゃないことはわかってる。話の話ならなんとか話せるかもしれない。そうじゃない。もっと根源的なところ、生物としておれがちびで非力で弱いというところに問題がある。根本でないにせよ、おれにはマッチョさがたりない。おれはフラジャイルだ、と気取ったところでシケモク一本の得にもならない。
 おれは上から目線と下から目線がぐちゃぐちゃになって、昏倒しそうだ。そして、上でも下でもなく、もっと根のところ、生きる力、気力、そういったものがない。エスカレーターから飛び降りる勇気だけはあった。あの日、大学に行かず浜松町からモノレールで大井競馬に行くことだけはできた。いや、それも転がり落ちただけのこと。次、転がり落ちる先は、おれには暗くてよく見えない。見たくもない。半端者が半端者なりに生きる場所などありはしない。あったとしても、幸運にもそこに辿り着ける確率は高くないのだ。自死か路上か刑務所か。三択のルーレットを回しながら、おれは今日も、明日も……。
 
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……まあ、家の没落という落差では祖母にかなわない。