- 作者: 城山三郎
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 1979/05/23
- メディア: 文庫
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「弁士注意!」
黒サージ服の警官が、咽喉仏を突き出すようにして叫んだ。正造は片方の眼をむいて、黙って警官をにらみつける。
聴衆が沸いた。正造のその姿を見ることは、演説会のたのしみでもある。
「かつて鉱毒猖獗を極めたとき、正造は頑迷固陋、無毒を主張する大臣に『しからば毒水をのんでくれい』と、コップに持参した。大臣は顔色を変えた。見ただけですでに毒効があらわれたのである。また、鉱毒の砂を伊藤さんや大隈さんのきれいな庭で使ってもらおうと思ったが聞き入れてくれん。そこで正造自ら埴土して進ぜた。効き目はあった。よく効く土じゃったと、大隈は漏らしたそうじゃ。」
鉱毒の劇しい土一樽をになって大隈邸に無断で入り、大隈の最も愛していた庭木の根本に土をぶちまけてきたのは事実である。
田中正造と言われると、「ずだ袋一つで天皇に直訴」だ。異論は認めない。……というくらいに、小学校やなにかの教科書に描かれていなかったろうか。この本を読むまで、そのイメージ一つだった。が、なんというのか、そもそもそこまでやる人間というものがどういうものか想像していなかったというのは、いかにも間の抜けた話のようにも思える。田中正造、すごい人物だ。
すごい、といっても、完全な義人、聖人といったニュアンスとも違う。この小説に描かれている正造はそうだ。どこか破壊衝動、破滅願望のようなものがある。
田中さんは純粋だ。だが、その純粋さは死神のそれだ。
などという人物評まで出てくる。とはいえ、いかに谷中村(渡良瀬遊水地のため国に廃村を迫られている村)の者たちに慕われていたか、あるいは、もっと大勢の人間に慕われていたかという。このあたりは興味深くもある。しかして、正造自身の最期の言葉として、こんなセリフが出てくる。
「みんな正造に同情するだけだ。正造の事業に同情して来ている者は一人もいない」
この痛烈な否定感。怒りとも言えるのか。おれにはちょっとわからない。
この小説、二部構成になっており、一部は正造が死ぬまでの「辛酸」、二部はその後を描く「騒動」。正造の亡霊に突き動かされるように、徹底して政府に、官に抵抗していく捨てられた村の民たちの姿……だが、やがては弱り、死に、切り崩されていく。
前後編併せてもそんな長い小説じゃない。松下竜一が題材にしたらどうだったろう(そういや和田久太郎が足尾銅山に……って話あったっけ。まあ、これは銅山が舞台ではない。あと、本書には大杉栄と伊藤野枝が来てくれた、という記述はある)かとか思ったりもした。というか、おれ、城山三郎とか読むの初めてじゃん。今後読むかどうかというと、読まなそうだけど。それじゃあなんで読んだのか、というと、そのあたりはまたいずれ。
ちなみにタイトルは田中正造が頼まれると揮毫したという次の漢詩から。
辛酸入佳境
楽亦在其中
この境地、一筋縄ではいかないものがある。ただ、ここまで行ってこそ過酷な状況の人に頼られるところもある。難しい。
>゜))彡>゜))彡
……松下竜一云々書いたが、未読の『風成の女たち - ある漁村の闘い』とか『砦に拠る』の方が対比できようか。
……公害問題でコップに水を、というのは田中正造が最初だろうか。世界に例はあるのか。原発事故でもたしかあったはずだ、そういう場面。