このごろの飲酒運転問題のこと

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060913-00000002-mai-soci

 飲酒運転で今年1月に懲戒免職となった横浜市立中の元男性教諭が「免職処分は重すぎる。裁量権の乱用だ」と市人事委員会に不服申し立てをしていたことが分かった。

 大きな事故があったせいもあり、このところ飲酒運転の問題がニュースなどでもよく取り上げられています。それで私は、つねづね飲酒運転に厳しくあってしかるべきじゃあないかと思っているわけです。
 いえね、私は決して厳罰主義者というわけじゃないんです。なんでも厳しくすればいいってもんじゃない。法のバランスもあって、こちらを重くすれば、あちらも重くして、こちらを禁止すればあちらも……となっていくと、どんどん厳しい社会になっていって、逆に法意識の低下すらおこってしまう。アメリカの飲酒法時代に、社会全体の遵法意識が下がったなんて話もあるわけです。みんなが普通に飲むお酒まで禁じてしまう法に対する信頼がなくなるというわけです。
 けれどね、飲酒はよくても飲酒運転はよくない。ダメ、絶対、カッコ悪い。そういう気運も高まって危険運転致死傷罪が導入されたが、こちらも問題があるという。要件であるところの「故意」を立証するのが難しいから、適用を手控えるケースが多いっていうんですね。冗談じゃない。
http://www.nishinippon.co.jp/news/wordbox/report2006/0904_4.html

 つまり、容疑者が「酒は飲んだが運転は大丈夫だった」と供述すれば故意を否認したことになる。同罪を適用しようとすれば、捜査当局は蛇行など危険な運転をしていた証言や身体の状態など「運転が大丈夫でなかった」という客観的証拠を補充しなければならない。

 みんな勝手に運転を覚えて、勝手に車を乗り回してるわけではありませんよね。実技とともに、学科試験を合格して運転免許証をもらうわけです。学科といっても国語算数理科社会じゃあない、交通法規やルール、安全についてなわけ。ということは、飲酒運転の危険性だって承知して、納得して運転免許を貰うわけでしょう。「酒は飲んだが運転は大丈夫だった」というのは、そこと矛盾するんじゃないでしょうか。酒を飲んで運転するっていうのは、あえて無差別殺人しようという意図があった、こう捉えていいんじゃないのかと。あるいは、未必の故意くらいかもしれませんが、それでも無差別殺人上等という話ではないんでしょうか。そうならないのがよくわからない。
 まあ、客観的に酒が抜けたかどうか判断するのは、難しいことです。飲酒直後の運転は論外としても、飲酒量や体質、体調などで変わるものだから、経過時間だけで判断に困るケースというのもでてくるでしょう。だから、個々人が見極めるための方策はケアしなきゃいけない。安いアルコールチェッカや、それを搭載した車とか。
 その上で、やっぱり飲酒運転は無差別殺人の未必の故意くらいでいかなきゃいかんと思うわけです。私はどちらかといえば自由を好む人間ですが、ここは法で飲酒運転の自由を縛り上げるべきだと思うのです。なぜなら、人間のための道具である自動車が、人間の自由を害するのは本末転倒。馬鹿が自殺するならいいが、他人を巻き込んじゃいけないよ、と、妙に憤りを感じてしまうわけです。それにまあ、徒歩が主な交通手段の人間としては、「あのでかいトラックが突っ込んできたら死ぬな」とか日々感じているってのもあるでしょう。
 それでもって、冒頭の元男性教諭。時勢が読めていないというか、なんというか。いや、単に新聞社がいつかの話を引っ張り出してきただけのことかもしれませんし、横浜市が追い風にとリークしたのかもしれませんが。しかしそうですね、法という大きな括りよりも、たとえば職を、生活を失うという恐怖の方がリアリティを持つかもしれない。そういう意味で、無差別殺人未遂を許さない方向で各企業自治体組織が動くというのも有効でしょう。そういった内規も、行き過ぎるとがんじがらめでよくない方に行きかねないですが、飲酒運転はね、と思ってしまう私なのでした。