喜捨とわたしとコンビニと

 善をなすことの難しさの一つは、己が誠の不足により、善をなしきれぬことによる跳ね返りが生ずることにある。もっとよい方法があったのではないか、もっと多くのことができたのではないか、逆効果ではなかったのか……、そういった後悔の念に苦しむことになり、あるいはそれにより己ができうるかぎりのささやかな善行にすら偽善のレッテルを貼り、それを忌避することすらありうる。
 情けは人のためならず、というが、善行も人のためならず、ではないだろうか。「まわりまわって自らのためになる」という考えは功利的でつまらない。情けや善は、なす者の情けや善のためのみにありうる。インドの乞食は銭を恵んで貰っても、「寄付者の徳を高めてやった」という態度をするという。その割り切りこそ潔い。
 ここにいくらかの金銭があって、自分の欲を満たすには足りず、必要を満たすには多い。これをどこに捨てれば喜べるか。病気の子供あれば死ぬ死ぬ詐欺かと疑い、慈善団体あればその本性を疑う。町に乞食探そうとも見あたらず、ホームレスは己がものより立派なテレビを持っているやもしれぬ。菲才の小人には跳ねっ返りが大きすぎること間違いない。
 どこかに投げ捨てて、結局自分の役にも、誰の役にも立たぬところ。かといって、焼いて灰にするようなことのないもの。そこに見返りを求めたり、結果を求めてはならないが、なにか証が残るところ。それが必要なのである。そして私は、それを見つけた。

 おお、誰のためにもならず、見返りもない。かといって悪行でもない。これにより我が心は無駄な贅肉をそぎ落とし、すがすがしい風を受ける。私は何かを失ったために何かを失い、得たことによって得る。ときどき身震いするほど美しい世界に光あれ。
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 かように、当然の社会的義務の履行に理屈を求める人間もいる。社会保険庁あるいは未来の日本年金センターあるいは日本年金機構の官吏より。汝らは法(ロー)ではなく法(ダルマ)の声に耳を傾けよ。私にはまだ同額以上の未払いが残っている!