俺のような馬鹿はどう生きようか、何を言おうか

 ここのところの考え事。

 どうもインテリの世界、知性の世界、学究の世界、政治の世界、思想の世界、政治運動の世界、そういったものというのは、過酷な世界だ。いや、過酷な者にとっては過酷な世界だ。頭の悪い者、理解の遅い者、心の弱い者、怠惰な者にとっては過酷な世界だ。俺は後者であって、ここではそれをとりあえず馬鹿とする。馬鹿はこの世に生きるにあたって、どうふるまえばよいのか。
 まず第一に考えられるのは、口をつぐむことだ。馬鹿が人語を解するふりをしてはならない、ということだ。喉まで出かかった意見なり、考えなりを飲み込んで、その考えを表明しないことだ。口をつぐめば、言葉の世界では存在しないと同じことだ。また、誰かに面と向かって詰問されないかぎり、黙ったまま生きていくこともできる。そうしているうちに、いろいろの意見を目にしたり、聞いたりすることによって、よりかしこい人の考えによって自分の考えが補強されることもあるだろうし、塗り替えられることもあるかもしれない。また補強されたり、塗り替えられた考え方が、さらに補強されたり、あるいはまったく反対の方向に塗り替えられたりするかもしれない。そうするに任せておけばよい。ついうっかり口に出したことで、すっかりスポイルされてしまう危険を冒すくらいならば、そちらの方がよい。

 だが、そもそものきっかけや動機のようなものがある。なぜ意見や考え方があるのか。飯を食って糞を垂れ流すだけではおれない、自分の食い扶持を稼いで糊口をしのぐばかりではおれないところがある。発心のような何かだ。かしこい人たちも、その発心にはじまり、それぞれの進むべきと信じる方向へ、それぞれの能力の限り進み、ときに人とぶつかりあい、ますますかしこくなりながら進んで行くのだろう。いずれにせよ、発心した先は、一番大きくとればこの世をよくしたいとか、社会をよくしたい、人をよろこばせたい、あるいは、自分自身をよくしたい、自分自身の心をよくしたい、まあなんでもよいけれども、一歩一歩少しずつでも、なにか外に対して、よいと信じる影響を与えたいと思うような、そのようなところがあるはずだ(人を苦しめたい、嫌な思いをさせたい、などと最初から思い立って実行していくような人もいるかもしれないが、それは置いておく)。

 とすると、黙り続けるというのは、なんというか、やはりそれでは果たされないところがある。かといって、能のないものは、下手に口出しすれば四方八方からずたずたにされて、せっかくの発心すらうち捨ててしまうか、あるいはあまりにもいかんともしがたいこの世界の現実に打ちのめされ、緊張を強いられ、心が壊れてしまうかもしれない。ここのところが、どうにも悔しく思う。もしも、そのような人が俺のほかにあれば、惜しいと思う。もったいないと思う。フィリアよりフォビアが先立ってしまうのが、厳粛な知性の世界だ。そこで、よくしたいというポジティブな心が、うまく導かれる方法はないだろうか。あるいは進むべき方向を大きく間違えぬよう、乗れる道はないのだろうか。
 ここのところがよくわからん。わからんが、しかし、うまくも下手にも、間違えも間違えぬもあるだろうか。絶対正義、真理、原理があるのかないのか、あるとしてそれは人間に有用か否か、たとえば科学のようなものはしっかりと証されるところではあるだろうが、はたして人間心理、社会、ありようについては、この世の終わりまで一貫するものがあるだろうか、どうだろうか。それが理屈の上に成り立つことはありうるのだろうかどうか。

 下手すれば相対主義の穴に落ちる、いや、落ちた先にあって、それで構わん、この凡愚一人、間違って生きたところで、動いたところで、どれほどのことがあろうかという、そういう開き直りも必要かもしれない。俺がこのような脳味噌とハートに生まれ、俺がこのようになるまでこのように育ってきたところに、いったい俺にどれだけの責任があるというのか、そこに選択があったというのか。この時代のこの国のこの両親の元に生まれ、また育てられるところに、俺自身のはからないなどありはしない。そこに意味など見いだせない、単なる偶然だ。俺が与えられた選択肢やその選択といった自由意志ですら、どこまで自由があったのか、すべて決められていたのか、そこに宿命論があるかどうかなどわかりはしないが、それがあろうがなかろうが俺が自由と思うようにふるまったところで、世界が壊れるわけではないのだ。
 そうだ、それで世界が壊れていない。すべての人間が自分の選ぶところなく、意志決定するところなく、適当に、偶然に、なんとなく生まれてみて、それぞれの与えられた肉と魂のなすところによって、偶然によって、まあ適当に、偶然に、それぞれに、おおよそ選びようもなく生きて、まあ適当に合ってたり、間違ったりするようなこともしながらも、まあ世界はまだあって、人間は滅んでいない。ものすごい数の人間が、適当に、偶然に、それぞれに、別の人間によって悲惨な目に遭い、死に、大勢死に、死んできて、また昨日も、今日も、明日も、悲惨に死ぬ。それでもまだ人間の数は多くて、大雑把に、ものすごい数の人間も、あるいはたった一人の人間も、あまり殺さない方が、殺されない方がよいという方向に、まあ大まかに、すごい長いスパンで見れば来ているように思う。

 そういう意味で、人類は、それなりにかしこく、日々それなりにかしこく、かしこいというか、ますますよい方向に来ていると見ることも、まあ悪くはないのではないかという思いにもとらわれる。それぞれの人間は、とくに生まれる場所も時代も選べずに、気づいたら生まれていたというようなところから来て、決して恵まれない状況に生まれたものもいて、ときに声をあげ、あるいはあげられず、まあいろいろとマイナスのことはあり、今もなおあり、明日や明後日、来年も再来年もあるだろうが、人間の有史以来と考えれば、あるいは悪くなったところもあるかもしれないが、大雑把に見て、あまり人は死ななくなったかもしれないし、痛くない思いをするようにできているかもしれず、人の増えた分、苦しい死に方をする人の数も増えているかもしれないが、増えたわりには、それなりに不幸の量を減らせないかと、そのように歩んできた方向というものはあって、それですら不十分であり、理屈のうえでは過去のあらゆるものについて否定せねば、また先はないというような、ストイックな見方もあるかもしれないが、俺の思うに、人間のなすことなど、おおよそ、偶然にこのような脳の容量に、体の仕組み、もちろん個々に大きく差もあるが、とりあえず宇宙人が来てみて人類と分類されるような形になってこのかた、あんまりやることに差などなく、百年前に死んだ俺と今の俺、百年後の俺がそれほど変わりあるかといえばそうでもないだろう。

 各時代に、やはりとてもかしこい人、ひとびとに頼られてそれに応えるハートのある人、そして俺のような馬鹿みたいなのがいて、それぞれの人間の割合というのは半々なのか、9:1なのか1:9なのかわからんが、まあそのように二分せずとも、いろいろの人間が生まれて、とりあえずこのようになってきているのだから、無理してかしこくない者がかしこくなろうとしようが、あるいは、無理してかしこくなれようが、あるいは無理せずかしこくなろうが、無理せず馬鹿のままだろうが、まあたいした話ではないし、歯を食いしばって、苦しみ抜いて、苦行の末に為すほどのことなどありはしないというか、あったらあったでいいかもしれないが、なかったところでどれほどのことだろうか。また、いつの世にもかしこい人、ハートのある人というのがいて、あるいは大きな負担に耐えられる人、苦しみに耐えられる人、戦いに耐えられる人、闘争に負けぬ人がいて、そういう人たちもまたときに世界をよくし、あるいはときに間違うかもしれないが、まあまだ人類は滅びていないというところに、希望を見出すという、偶然生まれてきた我々にしては、なかなかマシじゃないかという、その程度に思ったっていい。

 そう思えばこそ、みながそれなりに適当に生きようと、また歯を食いしばってがんばれる人ががんばろうと、馬鹿がまぬけに生きようと、まあそれなりに悪くなくなってきたのだから、まあまぬけはまぬけに生きようと、それなりに悪くはない、絶望するほどではない、なかなかマシじゃないかと、選んで生まれてきたわけではないのだし、と。で、まあそれなりに、生きていて、楽しいこともあれば、気持ちよいこともあり、おかしいこともあって、それもまた、せっかく自分のために用意されたものだし、気づいたらこうなっていたところもあるのだし、ありがたくいただいて、それでいいじゃないか。

 その上で、その上でまだなにか事足りない、自分の欲を満たすのとは別の、もっと大きななにかに対して事足りぬことを覚えたら、もうそれだけでたいしたものじゃないか、悪くないどころじゃないというところじゃないのか。どうせ間違ってうまれてきたような人間、己の欲のために盗んだり、害をなしたり、まあそうせざるをえないような状況に生まれたり、育ったりすることもあって、そんなものももう俺はおおよそ心の内では免罪してしまうくらいのハードルの低さ、いや、ハードルのなさで、まあ俺の中はそうなっているところもどこかあるのだけれども、まあそういう、だいたい、おおよそ悪いという方向へ、害をなしても構わんという方向へは行きたくないと、そう思っただけでももう地球人類にたいした一滴じゃないのかと、そう考えるくらいでいいのかもしれない。

 おおよそ、何かの間違いで生まれてきたようなものなのだから、間違えないようにしようというだけで十分だ。そして、間違えないようにがんばっていたら、大間違いで、気づいてみたら大勢の人を怒らせ、怖がらせ、傷つけ、殺しているかもしれないし、あるいは誘惑とか欲望とか、そいうものがまさって、それに運悪く取り込まれ、気づいてみたら大勢の人を怒らせ、怖がらせ、傷つけ、殺しているかもしれないが、まあもとから間違っているのだから、間違ってもしかたないんだ。もちろん、そうなれば、やはり人の世の理やルールによって、吊されることになるかもしれないが、まあ、それならそうで、それはもう、そういうものだったんだ。

 それでもたとえば、自分がもとから間違っているような存在であるというような、何かの間違いの上で、自由意志のないところで自由意志のようななにかをしているというような自覚があれば、また、なにか物足りない、事足りないところに、偶然に、たまたま、幸運にも行き当たったというような、その発心の出所を思えば、そんなに根本的な大間違い、致命傷的な間違いというのは、それなりに犯さずに済むのではないかという、このあたりは予断や油断かもしれないが、そういうところもあるのではないか。人間、常時、あらゆる方向から降りかかる責任や罪といったものにさらされており、それに耐えられる、耐えてそれについて責任を負い、頭を使い考え、勇気を出して行動するというような人もいるが、そうでない馬鹿もいて、しかし、馬鹿も馬鹿なりによい方向を向こうと思えば、たとえば十五戦十五勝とはいかなくても、八勝五敗二引き分けくらいでやりすごせるかもしれない。もちろん、幸運と自助努力、天賦の才、自己責任で十五勝することにこしたことはないかもしれないが、そもそも三勝くらいの人間が、スポイルされて一勝十四敗するようなのは、二勝分損だぜというところになるだろう。

 そういうわけで、俺のような馬鹿の人間というか、俺のような馬鹿は俺自身しか知らんが、まあそういう人間がどうすればいいかといえば、ともかく最初から間違っていること、また間違いであることを自覚しつつ、まあなにかかしこいと思う人、ハートのある人に対して、ある意味の権威主義的な賭けをして、決して自らの能を見誤らず、無駄にアクセルを踏まず、与えられた幸運を満喫し、また境遇が悪くなれば、そのときはそれなりに間違うだろうということを否定せず、またそのような境遇の人のなすことの悪さを免罪し、またかしこい人、ハートのある人に嫉妬や羨望をいだかず、ぼちぼちと、適当な速度で、死ぬまでペダルを漕いでいって、まあそこの曲がり角でダンプカーにひかれて死ぬかもしれないが、そんな間違いだって折り込み済みだというところで、やっていこうかなと思っています。おしまい。