自分としても書こうか書くまいが迷ったが、迷うほど考えそうなことというのは書かなければまとまらないので書く。今回の震災の報道映像についてだ。
多くの批判が見られた。ショッキングな映像ばかり流して、煽りすぎている。本当に必要な情報が流れていない。おそらくそのとおりだろう。たぶんは、コマーシャルも無しに、視聴率も関係ないであろうというのに、「世界の衝撃映像」のようなノリで多くの映像が垂れ流された。それに多くの人が知ってか知らずか参ってしまった。俺もその一人だろう。しかし、本当に衝撃的な映像が流れたのだろうか。
有り体に言えば、遺体のことである。テレビで流される映像、新聞や雑誌に載る写真、どこにも死んだ人間の体が写っていないのである。いや、注意深く探せば、瓦礫やなにかのなかに見つけられるのかもしれない。しかし、それも注意深く探さなければ無いレベルだ。あるいは、リアルタイムで見ていないが、津波が走っている自動車を飲み込むシーンもあったというが、それも以後の放送では見られない。
はっきり言っておくが「死体の映像を流すべきだ」と思っているわけではない。ただ、メディアが、「流すべきではない」と判断して、緊急災害時の時間のないときに、わざわざ映像を細かくチェックして、編集して、その上で、それでも十分に人間に衝撃を与えるような映像を流す、そのありようについて、なにかもやもやしたものを感じるのだ。こんなにすごい洪水がありました! という映像。これだけたくさんの人が亡くなりました、という数字。数字から個々の死を、被害のありさまを想像するのはむずかしい。一方で、映像のどこを見ても人が死んでいない。
俺の想像力が欠如しているだけだろうか? そうかもしれない。そうかもしれないが、どうもそこのところに妙な空白があって、そのことが気にかかる。ひどい言い草になるが、作り物を見ているような気になる。ハリウッド映画のような。本当の被災をしていない人間の、安穏とした場所からの空虚な発言だろうとも思う。たとえば、べつの大災害を経験した人ならば、メディアの映像、情報、それで十二分だろう。ただ、俺はそうではないのだ、今のところ。
繰り返すが、流すべきだと言うわけではない。亡骸がカメラにさらされる、その人自身、また、遺族にとって、いいことのはずがないのだ。さらには、それをメディア越しに見た人が、受けるべきレベルでないほどのショックを受けてしまうかもしれないし、それは本来必要ではないはずの被害とも言えるかもしれない。とくに子供などにとっては大きいだろう。いや、被災地ではそのような光景を目の当たりにした大人も子供もたくさんいるのだが。
しかし、それじゃあ、マスコミは、あの洪水の威力を、地震の恐怖を、ああいった映像でまったく伝えない方がいいのだろうか。わざわざ編集加工を施して流すくらいなら、流さない方がいい。地震や津波に関する速報、避難場所の案内、あるいは救援、支援の呼びかけだけ。それもちょっと想像がつかない。それも違うというような気がする。じゃあ、やはり今のマスコミの配慮が正解なのだろうか。俺は、隠されているから見たがっているだけ。たんなる悪趣味。そうなのだろうか。よくわからない。
要するに、マスコミというものがなんのためにあって、ニュースが伝わることによってどうなるべきなのか、そこのところがよくわかっていないのだ、俺には。情報とは、ニュースとはなんなのか。報道とはなんなのか。ジャーナリズムとはなんなのか。あるいは、それを受け取る側は、それをどう見て、何をすればいいのか。いや、何をするべきだとされているのか。たとえば、被災者に募金するとか、自身が災害に遭ったときのための備えをしておくとか、それはそれぞれに正しいことだろうが、もっと根本的なところで、ニュースってなんなんだろう。
そういえば、ほかにもテレビの気になるやり方がある。首相なり官房長官なり東電なりが記者会見をする。そのようすをライブ中継する。が、まだ話は終っていないのに、突然画面が切り替わってスタジオになる。さっきまで会見で誰かが話していたことを、要約してアナウンサーが読み上がる。……なんの意味があるの? NHKだろうと、どこだろうと。おまえらのまとめの方が、今まさに発されている一次情報よりも価値があるのか? そりゃもしも官房長官なりが「○○地域の人はただちに避難してください。人命に関わります。次に、震災に関する振り込め詐欺ですが、災害時振り込め詐欺対策担当大臣の人事を……」とかやりはじめたのなら、テレビは前者の情報を繰返しアナウンスするべきだ。しかし、そうじゃねえだろうと。
もちろん、こういったあり方に対する新しいやり方、ありよう、そんなものが、インターネットという新しいメディアを武器に現れてきていることも知っている。いずれは、あらゆる情報がリアルタイムでリークされつづけるようなことになるようにも思える。ただ、そうなる前に、ちょっとなにか、ニュース、情報といったものがどういった性質を持つのか、あるいは、情報の受け手である人間が、どのような性質を持つのか、なにが安全でなにが危険なのか、見据えておく必要がある。
……などというのも、なにも言ってないのと同じことか。そりゃそうだ、国民がみな高いリテラシーを持たなければいけない。地震にも津波にも、原子力発電所の仕組みにも核分裂にも放射性物質のおいしい調理の仕方にも明るければいい。機械の弾きだした数値を見て、冷静で的確な判断をできるようになればいい。ごもっとも。しかし、今すぐどころか、そんな風にすべての人類に叡智を授けることなんてできっこないだろう。だいたい、科学や技術や、あるいは人間心理の、脳の解釈の、あらゆるものが年々高度化していて、どれだけ知のハードルが高くなっていっているのか。せいぜい、あまり間違ったことを言ってなさそうだという人間の目星をつけておくくらいが関の山だ(しかし、こと経済学と呼ばれるものについてはまったく見当がつかない。どうなっているのか)。いや、それすら、自分ができているかどうか怪しいものだ。しかし、いつかはすべてが明らかになり、自然法爾の世界のみ起居することができるのだろうか。それも怪しいものだが。
まあ、人間はいつでも怪しいものだし、ちょっとどうにかしている。過去、現在、未来、馬鹿。とはいえ、だんだんかしこくなってきたところもあるだろうし、ますますかしこくなっていくかもしれない。人類は万事かしこくなっていきたいと思っているし、ますますうまくやっていきたいと思っている。と、武者小路実篤病が発症したところで、無理やり終わる。終わらない話っぽいので。ぽぽぽぽーん。