自由の刑務所

 昨夜の報道ステーションで、旭川刑務所の特集をしていた。雑居房内での会話、すなわち配膳時の「ミートボールのいいところ」や(塾講師による女子小学生殺害ニュースを見て)「悪い野郎だな!」など、まさに『刑務所の中』や見沢知廉の刑務所ものそのものであって満足した。
 俺はなぜかして刑務所の話にひかれる。思うにそれは、刑務所には自由があるのではないかという、淡い希望があるからだ。イエモンが歌うところの「不自由と嘆いてる自由」(「パール」)、ブルーハーツが歌う、見えない銃を撃ちまくるところの「見えない自由」。自由と不自由はどこかしら価値の転倒を孕んでいる。もしも真の自由があるならば、自由不自由の不二のところにあるのだろう。
 そんな超越したところはどうでもいい。娑婆とムショの価値の転倒だ。娑婆の語源は次のようなものという。
http://gogen-allguide.com/si/syaba.html

娑婆は仏教から出た言葉で、「忍耐」を意味するサンスクリット語「saha(サハー)」の音写。
この世は内に煩悩があり、外は苦しみを耐え忍ばなければならない俗世であることから、「忍土」と漢訳され、「娑婆世界」や「娑界」と呼ばれる世界は、自由のない世界を意味した。

 おおまさに、価値の転倒をはらんだ言葉だった。刑務所には自由があって、この俗世間には自由がない。何の自由があって、何の自由がないのか。
 自由な俗世間では立場や身分が自由だ。刑務所のように刑務官と囚人の関係はないといっていい。しかし、現実には刑務官と囚人の関係はありうる。俗世間では生まれの豊かさ、生まれもった肉体、知能、容姿、コミュニケーション能力の差から不自由だ。とはいえ、その不自由さはかなり明確な形、目に見えるような、判定できるような障害などの形で顕現しなければ、ハンデと考慮されぬ。自助努力や自己責任でどうにかする微差とされる。もちろん、そうでなくては社会は動かず、それをわからぬわけにはいかぬから、不公平を不公平と言うわけにもいかず、言ったところでどうにもならず、自らの至らなさに向き合って生きなければならぬ。この呪っても呪い切れぬどうしようもなさが俗世間、娑婆の不自由といっていい。
 ならばそれが刑務所に行けばどうなるか。犯した罪の種類、大きさ、やはり人間力による序列もあろうが、おおむね均しく囚人であって、均しく社会から尊敬されぬ存在だ。そして、その立場を刑務所内でどうすることもできない。その点で、娑婆の自由なゆえに不自由な、がんじがらめのステータス地獄よりも自由ではないのか。名家の生まれの御曹司も、エリート知能犯も、ケチなこそ泥も皆平等に価値がない。自由と平等の世界だ。それは生きやすそうな世界だ。
 が、俺の刑務所は夢幻のガンダーラにすぎぬ。
http://www.asahi.com/national/update/0222/TKY200702210349.html

受刑生活で一番苦労したこととしては、72%が「受刑者同士の関係」を挙げ、「自由がない」などを大きく上回った。

 やはり、身ぐるみはがされ囚人服を着せられようが、人間は人間か。人間に絶望せざるをえない。いや、人間より人間関係か。関係といえば、関係する半分は自分なので、半分は自分が悪い。いや、悪い、悪くないといったところで、もう半分の俺以外の人類全部をどうにかすることできぬ。ならば自分を変えねばならぬが、そんなすべを知っておれば刑務所などにひかれぬ。