悪意の跳ねっ返り

 善意の行いの難しさは、行いきれぬところの不足が自分に跳ね返ってくるところにある。行いが中途半端で役に立てないとか、よかれと思う行いそのものがそもそも誤っている可能性もある。小さなところでは、町中で体の不自由な人の手助けをするとか、電車で席を譲るとか譲らないとかで、恥を恐れて行えない場合があるのは、その跳ねっ返りがあるからではないだろうか。
 善意の行いに跳ねっ返りがあるならば、悪意のようなものにも跳ねっ返りはあるのではないか。たとえば、他人を傷つけるに十分なきつい言葉を投げかけてしまったり、態度を示してしまう。「なんであんなことを言って/してしまったんだろう」という後悔に襲われる。自己嫌悪に陥る。これが悪意の跳ねっ返りと言っていいかもしれない。
 往々にしてこの二つがセットになって、あらゆる行いを恐れる。これらが作用して、傷つくのを恐れる。言わぬ、行わぬ、顧みぬ、これをよしとする。それが俺だと言えよう。
 しかし、世の中を見渡せば、他人に悪意をぶつけてもへいちゃらな人たちがいる。小さなところでは(大きなところは知らないので、そもそも例を出せないが)、たとえばコンビニや飲食店の店員にやけに横柄な態度を取ったり、怒鳴りつけたりする類の王様。ちょっと肩がぶつかっただけで、何様かになれる人間。ドキュンなどと言えばいいのか、そういった類の人間。老若男女問わずいる。彼らはいつも何様かでいられるので、この世は幸福だ。
 この世で幸福の人間と不幸の人間がいたとして、どちらが多い方が世の中は幸福か。前者に相違あるまい。世の中は悪意の跳ねっ返りに耐えられる人間が多い方がよろしい。そういった人間が人生を謳歌していくところに、人類の健全な進歩がある。経済と政治の発展がある。人間教育もこれを基盤に行われなければいけない。感受性などという無駄な盲腸は破壞しておくに越したことはない。人に何をなそうが気にしない姿勢が、人に何を言われても動じない人間を作る。人にちょっと何かされただけで、「相手は俺を殺そうとしている、ゆえに俺は相手を殺さなければならない」というような過剰防衛に走らないようにする。自分の至らなさや愚かさが何ものかに反射しようとも、その姿に気づかぬ人間、いつも何様かでいられる人間。そんな人間になりたい。
→何樣かでいられるには肉体的な強さが担保になければならないような気がする。
→恥知らずに恥知らずといっても恥を知らないのだから恥じ入るところはない。能なしに能なしといったところで能がないのだから己の能を知るところではない。無知ゆえに全能。無能ゆえに全知、なのか。
→跳ねっ返りを恐れぬ善意。跳ねっ返りを超えるところにある。もしくは跳ねっ返りに盲目。しかしそれを根本的に否定できようか(id:goldhead:20070118#p2)。
→以上反語的価値観、ルサンチマン的、自己憐憫的、自己愛的、敗北主義的、価値観。実際には恥や道徳は尊ばれよう。しかし、この世の現実社会、日常世界は九割方がそれらの逆でできてはいないか。道徳的に尊ばれた世界は、それ自体、知的貴族、肉体的貴族、収入的貴族、コミュニケーション貴族による上流階級の話ではないのか、とやっかむ俺様は何樣。貧乏人の子に道徳の灯火など見せてはならぬ。さもなければ肉を与えよ。