情には理知のタミフルを、理知には情のタミフルを

 タミフルを巡る話題があります。一方には異常行動との因果関係ありという意見があり、もう一方というか、とりあえずの公の見解としてはインフルエンザ自体による異常行動であり、タミフルが原因でないとする意見があります。さらには、本来インフルエンザによる幻覚などはあるが、肉体も疲弊しており行動には移せない。しかし、タミフル投与によって肉体的の回復が先になり、そのよからぬ一致点で異常行動に走る、という仮の見解もあるようです。私などは化学も薬学も統計学も知りませんので、最後の筋書きが、たとえば鬱の自殺は回復途上に多いなどという事柄と軌を一にするようにも思え、なんとなくしっくりくるようではありますが、そんなしっくりくる感は、ときには正確な理解の妨げにすらなる代物でして、さしたる意味のないことと思われます。
 従いまして、タミフルを巡る問題はまだまだ我々素人が飲み下せぬ曖昧模糊とした状況にあると見ても良いようですが、私個人の問題としましては、問題とされる年齢、これもまた幅のある話のようですが、そこからとうにはずれていることもあり、むしろ幻覚・異常の境地味わいたくタミフル飲み下す覚悟はあるところであります。まあ、私個人のことは置いておきまして、このタミフルを巡る報道でありますとか論には一つの傾向が見えてくるように思える次第です。
 感情的な民族、などと言いますと、昨今は朝鮮民族ですとか、中国人(この場合漢人ということでしょうか)などがよく言われるところですが、日本人もそれにまったく劣らないところがあるように思えます。ただ、感情の方向が怒りとか恨みではなく、感傷の方に行く。情緒的、感傷的、ときには自傷的ですらある。そういう一面はありはしないでしょうか。攻撃性においても、どちらかといえば、もういい、もはやこれまで、やるだけやって美しく散ってやろう、というような破滅傾向が少なからずあるように思えます。これまで、であって、あとのことはあんまり考えない。その場合、理屈より情が通る。それは美点でもあって、欠点でもある。日本人相手で通じやすくとも、別の文化には通用しないこともある。情は情で通り、情の中で終わるだろうと思ったら、それが相手の方で理屈と受け取られ(相手にしてみれば、こちらが情のつもりだとかそういうことは分からないので仕方ない)、その理屈を追及されてあとで困ったことになる、そんな歴史問題は思いつきはしませんでしょうか。
 冒頭述べましたように、タミフルを問題だとする声は、単に情であるとはいえないのが現状でしょう。しかし、その批判の動きの中に、少なからぬ感情論が見えるようにも思えます。たとえば、遺族が大切な人を失った気持ち、それを薬害に求める気持ちに偽りや打算はない。その情は最大限に酌まれなければならない。しかし、だからといって、たとえば鳥越俊太郎がワイドショーで述べていたのですが、「遺族感情を考えて、一人の被害者も出さないように」などというわけにはいかない。それではあらゆる薬、あらゆる医療行為が出来なくなってしまう。副作用のない薬はない。もちろん、だからといってどんな薬が出回っていいというわけではなく、やはりそこには副作用の起こる確率や危険性を科学で分別しなければいけないわけです。
 そして逆にまた、タミフルを安全だとする意見の中には、やはり理屈より情の場合も見受けられるように思えます。どうもお上のやることにケチをつけるのは左翼の策動ではないのか、タミフルの背景にある製薬会社や、大きな構図を攻撃するのが目的ではないのか、と。こういうのをバックラッシュ言うのかしりませんが、そういう発想はやはり科学の分別というより情が大きく加わっているように思えます。とはいえ、たとえば背景を先に言い出したのはどちらの側か、あるいはその背景のどこからどこまで正しいかなどと考えると、因縁と果の糸はもつれにもつれてわけがわからんということになります。
 というわけで愚痴の私がいくら脳内シャドーボクシングしたところでわけがわからんということなのですが、わからんなりにやはり問題と考えるのは、情と理屈をどう折り合いつけさせるかという点ではないかと思います。このタミフルの件ではまだ情と見えるものが理屈、理屈と思われるものが情、理屈の正しさと誤りがどう転ぶかわからないわけではありますが、仮に、たとえば冒頭の体の方は元気論だとして、さあどうするというわけです。遺族の情を前に、正しい理屈(理屈には理屈として、やはり見方によってさまざまな論を引き出せる方便のようなところがあって厄介ですが、仮に目に見える石のような証拠があったとしましょう)を出せたところで、果たして済むのかどうか。国家やその機能は理屈による分別によるべきであって、感情、情緒に流されていいわけではありません。かといって、そこで理知的な分別のみで済ませていいのでしょうか。あるいは、国家の先行きとして、これからは理知重んずべしと日本的感傷を排した人間教育をし、それで済ませる方法もあるかもしれません。もちろん、ときに情緒優先の行き過ぎる国にあって、科学的なリテラシーを教育に盛り込む必要はあります。しかし、それが行き過ぎればやはり拒否反応が出てくる、歪みが出てくる。かといって、現状では情緒に流される雰囲気は消えず、それによる弊害がないとはいえない。しからば情理不二の国、などと言うのは簡単だが、それが何なのか皆目見当つかない。情には情で応じ、情で解決することもあるだろうけれど、人間の情ほどむずかしいものもない。理屈に情をぶつけてそれが正しいこともあるだろうけれど、誤りであった場合のとりかえしのつかなさは大きい。やはり矛盾する人間の蠢く有情国家、いかなる道をもって悉く救われるのかわからん。