『戦後プロ野球50年 川上、ON、そしてイチローへ』近藤唯之 より引用
平和台球場の試合である。スコアは0-0のまま、8回裏、西鉄の攻撃に移った。この回、稲尾和久投手は左翼席本塁打すると、一塁側ダグアウトへもどってきて、ホラを吹き始めた。中西太と豊田泰光の前でである。
「あしたの新聞の見出しはきまったなあ。“エース稲尾、4番打者も兼ねる”ってか」
最初に中西がいいだした。
「なあ稲尾、野球ってのはひとりでやるものじゃない。よしわかった。オレの前にゴロがきたらエラーするからな」
豊田も黙っていない。
「おい稲尾よ、世間ではオレのことを“トンネル豊田”とか、“豊田トンネル”とか呼んでいるわなあ」
要するにあまりホラ話をすると、エラーをするぞという、おどしである。
ところが世の中なんて不思議なものだ。
……その後の9回表、どうなったと思いますか。なんと見事に中西と豊田がエラーをしてしまうのである。本気でエラーする気がなかった中西と豊田は真っ青になって釈明。しかしそこは、神様・仏様・稲尾様、続く三塁線へのバントを自らさばいて三封、次の打者を二塁ゴロ(二塁手は仰木彬)に打ち取って試合を終わらせたのである。
と、たまたま手元にあった近藤唯之の著書には、こんなエピソードがあった。“魔術師”三原脩率いる“野武士軍団”西鉄ライオンズ……、自分が生まれる前の世界だ。しかし、“鉄腕”稲尾の名は、神様、仏様と同列に語られる稲尾の名は、伝説は、この二十一世紀にあっても輝きと重みを失わない。素晴らしい日本の野球。合掌。
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http://www.sanspo.com/sokuho/071113/sokuho014.html
西鉄時代の同僚で、評論家の豊田泰光氏は「彼がいなければ、僕ら西鉄ライオンズの選手の人生もなかった。私の投手論の中には稲尾君しかいない」と話し、黄金時代の主砲だった中西太氏は「元気になって出てくるだろうと思っていたが。寂しい限りです」と、70歳での死を惜しんだ。