性欲 どうにかならないか

 こんな日記に検索から辿り着いた人、なにか役に立てばいいとは思うのですが、検索エンジンの領分がおおきくどうにもならない。「性欲 どうにかならないか」と検索された方、どうでしたか? 引っかかったのは次の箇所ですか。

建仁元年(1201年)、京都の六角堂に参籠した比叡山の堂僧・善信は、救世観音の化身である聖徳太子から夢のお告げを得た。性欲に苦しむ善信に向かって、太子はこう告げた。
「お前が前世からの宿縁の報いで女犯せずにはおられないのなら、私が美しい女となって犯されてあげましょう(我成玉女身被犯)。一生、お前を幸せにしてやり、臨終のときには極楽に導いてあげましょう」

http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20051124#p2

 これか。しかし、やはりこれはエロいな。『日出処の天子』の発想はこのあたりにあったのだろうか。もっとも、最近では聖徳太子像のどこまでが史的聖徳太子かというあたりで論争もあるらしく、俺としては同性愛者で超能力者というところは譲れないわけではない。
 そして親鸞。ちょっと前まで、親鸞について読書していたんだった。吉本隆明の次の本だ。

〈信〉の構造 (Part 1)

〈信〉の構造 (Part 1)

 本当は『最後の親鸞』が気になっていたのだけれど(名前がかっこいいから)、古本屋で売っていたのがこれだったのだ。親鸞に限らず、日本仏教に対するいろいろの寄せ集め。それで、やっぱり難しい。よくわからない。ただ、浄土真宗についてはあれだ、あの本がいい。
妙好人

妙好人

 鈴木大拙の『妙好人』だ。これはずいぶん前に読んだ(感想文は書いてないな。……妙好人とはなろうと思ってなるものではない。ただ、その生き様や、才一のようにたまたま残された言葉から垣間見るのみ。ここに、その境地にない人間、「信」の無い人間である自分との距離感というか、立ち位置を考えてしまう。そのあたりは『信の構造』の序文あたりで吉本隆明が書いたことかと思うが……。あと、最後の方に、ある妙好人が純真に日露戦争への素朴な協力が、とくに何の論評もなく紹介されていたが、それの意味するところもまた考えねばならんだろう)。それで、引っ張り出してきて開いてみれば、浅原才一の妙好人・浅原才一のものっそい世界にくらくらするのだけれど、みださまの方へ行くところと行くところにすでにはたらきかけられているそれについてなるほどと。でも、吉本さん、そこんところの質問には答えてないな、いったい、はたらきかけられないところにそれは無いのでしょうか。
 まあ、そこは置いておいて、悪人正機、出てきたな『歎異抄』。でも、原文なんかようわからんわ。でも、現代語訳は買っておいたんだった。 ……と、三冊も仏教本開いてる俺はなに? 仏教徒? 仏教大学生? まあ、なんであれ、このくらいの古さの本を開いているだけで愉しいのだけれど。でも、そのままお開きになってしまった。いずれ、また。
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