自己責任論について考えてみたが、まとまらなかった。

 ポケーッと貧困や自己責任について考えていたら、ずっと前にウェブで読んだ漫画のことが思い浮かんできた。スーパーリアルRPGだ。

 この第13章「死せぬ命」だ。解説文を引用させていただく。

RPGではHPが1になっても平気で動いたり、会心の一撃などを連発することもありますが、現実で瀕死の人間がそれをやったら救急車は帰ります。注意してください。
命はオール・オア・ナッシングではありません。
体力の減りと共に、
「元気」→「元気」→「元気」→「元気」→「突然の死」
ということはありえません。
「元気」→「ちょっと元気」→「ヤバい」→「瀕死」→「死」
となります。
もし現実でもRPGのようだったら、過労死や突然死が数十倍になることでしょう。

 言われてみればその通りの話だ。中にはそういったリアルさのあるゲームもあるだろうが、ほとんどがHP1でも元気だ。それはちょっとおかしい。ダメージを受けたら、頭の回転から、攻撃力から、防御力からぼろぼろだ。
 で、このHPが生活力とか、人生とか、家計だとかだと考えてみたらどうだろうって。HP1と言わなくても、HP欄がオレンジ色になってるような状態で、そりゃあよくわからんが、「痛恨の一撃」を繰り出せるような人や、急に防御力と魔法防御力が上がったりするような、特異な体質な人もいるだろうが、だいたいは上の漫画のようなもんだろうって。どん底から這い上がった億万長者なんてのは、あんまりそこらへんを歩いたりしてねえって。だんだんまずくなっていくと、それにつれて体力も心も頭も働かなくなっていくっての。
 貧すれば鈍する。……って、別にこの一言でもよかったか。あるいは、人によっては、生まれた段階で世間平均から見たらデッドゾーンみてえなケースもあるだろうし、機会の均等っていったところで、てめえでてめえの血統や産まれを選んでこの世に出てくるわけでもねえし、そこんところはわしら全人類の共通事項だろうに(……というのはやや乱暴。たとえば、前世での行いという理由を持つと考える死生観もあろう)。
 いや、話はそっちじゃない、生まれの話は置いておくとして、えーと、こないだマリオカートやったら、最下位のプレイヤーにはさ、なんか大豊になってデュミロ主審に飛んでくみてえなアイテムとか出やすくなって、なんか昔のゲーセンのレースゲームとかもそうだったけど、最下位の方はさ、贔屓された方が、競走はなんかそういう方が盛り上がるんじゃねえのって。
 あーしかし、なんというのかね。現実には、もうやめて、HPは0よ、なのに、HP満タンのときと同じ戦い方しろっていうような、そういう強制みてえな、圧力みてえな、そういうのってねえかなって。人間が貧してくると、選択肢みてえのはどんどん縛られていくし、俺みてえのは、おまえ、宅間守みたいな心持ちになるんだぜ。宅間守に合理的な判断できるかっての。そりゃあさ、ジョバンナ・アマティのブラバムに最下位ロケット装置はつけられてねえけど、そりゃあそういうルールの上のF1であって、いちいち俺も話が古いけれども、まあそういうことじゃねえの。
 つーかさ、別にレースに参加しなくてもいいんじゃねえの、そういう方向はねえのかよって、どうもそっちだ、俺は。だから、どうもこの話はこの辺で。もっとまとまるつもりだったけど、なんか今日ぽかぽかあったかくて、俺、眠いじゃん。
 あと、それと、自己責任だけど、自己責任は無い、というのは、ある意味、たとえば親鸞が言うみてえに、羊の毛の先の埃みてえな罪の一つ一つもぜんぶ宿業だって、そういうところまで踏み込むならともかく、そうでないのに言うのには、やはり抵抗がある。そいつの中で生じて、そいつの中で引き受けられるそれはあるし、なきゃいけない。あらゆるお前の全部は、あらゆるお前のことではなく、計測されうる社会事情の責任だ、というのは、あまりにもそいつが、あるいは俺が空っぽすぎて、そこまででくのぼう扱いされるのも、人間の否定であってさ、まあ、突き詰めて否定しきってもいいのかもしれねえけど、それがうまくいくかどうかもわからず、たとえば、世間で言われたり、面と向かって言われることによって、自己責任論、自責地獄に陥るような場合、「そのラインまではお前の責任じゃねえよ」って、自己責任論から解放することは必要なんだけれども、そうでない場合、ある程度、最後のゴーストラインは守った方がいいんじゃねえかとか。でも、危急のときは、ともかく状況のゆるしとして方便も必要かもしれないとか。そのへんのこと、このブクマあたりで考えたりした。それじゃあ、まとまんないまま、バハハーイ。