『前衛仏教論』を読んで

前衛仏教論 (ちくま新書)

前衛仏教論 (ちくま新書)

 新書。いつか読もうと思っている『法然明恵』の著者。どこかしら、新書っぽいと思った。ビジネス書的な。ある意味、寺の経営者たちに語りかけるような、お坊さんに語りかけるような、呼び掛けるような。
 でも、俺はそれ、あんまり興味ねえや。はっきりいって、生の僧に興味がない。生臭い話に興味がない。「だから今の寺や坊主はだめなんだ」とか、そういう論の尻馬に乗る気もおこらない。まったく興味ない。勝手にやってくれ、というところがある。
 なんといっても、俺が、何冊か仏教関係の本を読んできて思ったのは、さかのぼればさかのぼるほど前衛的というか、アバンギャルドというか、エキサイティングというか、まあすげえことこの上ない、ビッグネームたちの振る舞いであり、物言いであって、まあ、本の中のそっちを追うのがおもしろくてしかたない。だから、いくら道元に叱られても、寺と坊主はいらねえやって。
 つーかさ、俺、べつに坊主になるつもりもないし、それどころか、名乗れるような仏教徒になるとか、そういうつもりもねえし。本読んでると面白い。本に書いてあったことを考えてると面白い。それにつきるし、それでいいだろう。
 なので、この本のなんだろう、鈴木大拙よりも秋月龍みんに色濃い部分の、さらに濃いところ(ようするに、仏教の教団としてのあり方とか、そういうの)については、あんまりよう知らんというところ。
 でも、最後の方に、いいこと書いてあった。

 悟りへの近道は、自分の愚かさに気づくことです。徹底して、自分の愚かさに感じ入ることです。

 これはいいな。これ、単なる自虐ではない。自己憐憫の愚かさも、また感じ入ってさ、玉ネギの皮みてえに。むしろ、どっかもう開きなおるくらいで。俺くらい愚かなのが、楽しく生きられないで、この世がよくなるはずがあるかよ、くらいの。でも、だからって、別に悪いことしたりすることもなくてさ、本願ぼこりみてえな。そりゃあつまんねえよ。それにたぶん、自分の愚かさに気づけば気づくほど、というか、気づくだけで、なんていうか、愚かさを一つ知れば、一つ片づけられるというか、すくなくとも怒りなら怒りとか、欲なら欲に気づいて、気づくだけで、たぶん、それをどうにかしなければ、とか、修正しなければ、とか、気張ることなしに、ああ、今、地獄だと、でも、地獄に生まれたわけでもなし、と、トートロジー的に、どうにかなるんじゃねえのって。レコーディングダイエットじゃねえけど、まあ人間、そんなに無理しなくても、まあてめえのことそれなりに見られていれば、そりゃあもう聖人君子だかなんだかにはほとんどなれるわけはねえけど、なんかもう、取り返しもつかないような、そういう間違いは、まあ、少なくとも、そいつの領分の中ではしなくてすむんじゃねえのって、そう思う。
 そりゃあもう、なんかもっと大きなものとか、どうしようもねえ、そいつには左右できないことが、もうたとえば、生まれるところだってなんだって、圧倒的に不自由であって、世の中に自己責任なんてものはないんだって、そうとも言えるわけで、俺なんかはもう、なんというか、よくわからないところから、あらゆるものに免罪しつづけたくなる、そんな心持ちであってさ、もう好きにやれ、好きにやる、というところが、いいなあって、そうなっていけよって。もう、俺は十分だよ、なんかわかんねーけど、それなりに満足だよって。
 で、たぶん、足ることを知るっつって、ここで自分が満足することを、「悪しき体制への加担」、「日和見主義の奴隷根性」などと批判する、そういう意見もあろうが、まあ、俺はもうそういうの御免だ。そうののしってくれて構わん。もしも俺が、為すようになれば、為すだけのことであるし、為さねばそれだけのことだし、その程度のことがなんだろう。そんなもんでいいんじゃねえのか。まあなんというか、俺は俺の怠惰に理屈をつけたいだけかもしれねえけれども、無理はよくねえよ、無理は。無理しても成し遂げなきゃいけないことがあるんだ、勝つまでは我慢だって、そういうので、まあ人が人を殺したりしてきた面もあるんじゃねえの? すげえかったるかったら、もう戦争とかしたくねえじゃん。でも、かったるいで済まない、黙ってたら死ぬようなときがあって、それを救うために、やはり無理や我慢が必要かというと、俺は愚かにも答えられないし、かしこいやつ、勇気のあるやつ、力のあるやつを心底応援したいと、それだけは言っておきたいんだけれどもさ。

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