『最澄と徳一 仏教史上最大の対決』を読む

 

 

最澄と徳一、仏教史上最大の対決、である。仏教史上最大の対決かどうかは知らない。法然vs明恵というマッチアップの本もあったはずだ。

 

 

まあいい、『最澄と徳一』である。おれはこの本に、いろいろ読んできた仏教本にはなかったなにかを感じた。それはなんなんのか。一言で言えば「歴史学的な過去」である。

 大著『メタヒストリー』(1973)によって、歴史叙述の持つ物語性、文学性に着目することの重要性を説いたアメリカの歴史学者ヘイドン・ホワイト(1928~2018)は、晩年、イギリスの歴史哲学者マイケル・オークショット(1902~1990)の提唱する「実用的な過去(practical pasot」「歴史て学的な過去(historical past)」という対概念を参照しつつ、前者の意義を強調した。「実用的な過去」とは、個人や集団の問題を解決したり、生存戦略・戦術として用いたりする「過去」であり、「歴史学的な過去」とは、歴史学者によって行われる、没利害的で、過去を知ることそれ自体を目的として研究される過去のことである。

 

おれが読んできた仏教に関する本というのは、「実用的な過去」に則ったものであったことが多いように思う。一方で、この本は「歴史学的な過去」によったものである。そもそも徳一とはだれか、どのような人物かということを、同時代の史実によって明かすところから始まる。万葉仮名の使い方から「京」にいた人物であろうなどと推測することから始まる。

 

すげえ、マニアック。それでも、マニアックの一端にすぎない。なんだろうか、一食分のモンブランとしての新書ではなく、ホールケーキを切り取ったなにか、のようななにか、なのだ。あれ、比喩がうまくいってない? なんだ、まあ、とにかく、「歴史学的な仏教の論争」の濃いところを切り取って、そのまま出してきたようなところだ。とはいえ、一人分に切り分けられているだけあって、そのまま濃いわけでもなけれど、すげえ濃いよ、というところだ。

 

これを「濃い」というと、「お前は歴史学的な本を読んでいないからだ」と言われそうだが、まあ、そりゃそうだ。どちらかというと、近代、現代精神について関連付けられたような仏教本を読んできたということになる。そこに、この「歴史学的」な濃さはなかなかのインパクトがあった。

 

というわけで、最澄と徳一の対決については、ここで紹介することもない。紹介することもできない。ただ、その「歴史学的」な見方に感心したということと、因明(へートゥ・ヴィドヤー)という仏教の論理学的論争のやり方について触れたということが大きい。

 

因明。日本人はあまり論理的ではないとか、西洋と東洋の対比とかでそんなふうに語られていることはいくらか見たが、最澄の時代でも深く論理的な宗教論争が行われていた。これは論争の対比なくして見られないものであって、ああ、そうなんだ、と思った。その一端はこの新書にて紹介されていて、けっこう日本もやべえなと思うところであって、そのあたりはともかく本書を当たられたい。

 

歴史学的過去」というものがともかくおもしろいかといえば、どうかわからないが、そういう見方があることについての「きっかけ」として本書はそうとうな入門書であろう。そいう見方を知っているぜ、という賢明な人にとっては、仏教の些末な論争に見えるかもしれないが。

 

以上。