俺が今日、すき家で昼飯を買うということ〜さらば、愛と青春のすき家〜

この世を貫くものの不在


 なんの本だったかなんだったか忘れたが、「街中でのポケットティッシュ配りは善か悪か(是か非か)」というようなテーマについて読んだ覚えがある。いわく、たとえば地球環境などという面から見ればマイナスもあるかもしれないし、商業活動、経済の循環としては是だろうだとか、経済が発展すれば環境に寄与する面もあるのだとか、ともかくこの現代社会、何一つとってみても、おおよその事柄が是々非々というか、立ち位置によって評価も異なり、また、ポケットティッシュ配り一つですら、それを断じきれるイデオロギーなどないのだ、云々。ひょっとしたら、吉本隆明だったかもしれないし、吉本隆明片手に私に語りかけた父の言葉だったかもしれない。
 その見方、あるいは相対主義とでもいうのか、それ自体の是々非々はあるやもしらん。しらんが、やはり私も世の中を一刀両断できるような思想や主義、教えというものの存在は信じておらないし、もしもこの世界を一気に貫けるものがあるとすれば、それは言葉や観念、思想などというものではないのではないかと予感する。あるいは宗教的ななにかではないのか、と。
 なにが言いたいのかと言えば、私がこの昼に、すき家で「お好み豚玉丼」を買ったということについての逡巡である。私はこの記事のブックマークに以下のように書いた。

すき家なか卯派(近くに吉野家松屋がないので)の人間にとって、このニュースは衝撃だ……。いや、前も偽装請負の話あったけど

はてなブックマーク - asahi.com(朝日新聞社):すき屋ゼンショー、残業代不払いで告発した社員を告訴「飯5杯盗んだ」 - 社会

 衝撃、は言いすぎかもしらん。しらんが、あんまりいい気はしないのはたしかだ。あんまりおもしろくない話だ。ただ、「あんまり」がつく。「不買だ!」というほどの嫌悪や意志はない。そこまで私は善人ではないのだ。純潔な魂を持っていない。私は私の食欲を捨てきれない。この記事について記した、以下のような食欲である。

あ、お好み豚丼食っておかねば。

はてなブックマーク - asahi.com(朝日新聞社):「すき家」牛丼とカレー値下げ、豚丼は休止 23日から - ビジネス

 すき家豚丼撤退。おそらく、上の話題と「経費削減」、「不況」、「値下げ競争」などで、どこかしら同根の話やもしらん。しらんが、ともかく、俺にはお好み豚丼を食っておかねばならん事情もあるのだ。

 そんなわけで、何となく負けそうになりながら、お好み牛玉丼を食べたわけだけれども、まあもう頼むことはないだろうと思う。あと、お好み焼きならむしろ豚丼じゃねえのかとか、そんなことも思い、一応メニューのページを見てみると、やっぱり節操なくバリエーション化されており、しまった、豚だったと、たとえば豚でもう一回食うかとか、まあそんなことを考えたり考えなかったりする。

お好み牛玉丼(すき家) - 関内関外日記(跡地)

 こういうことである。この後に、お好み豚玉丼を食べた人の記述などを読み、ほぞをかむ思いをしていたくらいである。ほぞを噛むくらいなら、数か月も放っておかず、行けばいいじゃないか、という意見もあるだろう。だが、ちょっと待ってほしい。数か月覚えていたくらいなのだ。
 ゆえに、私はすき家をボイコットするより、私の食を選んだ。浅からぬすき家のある生活。私にとっての社会とは、私のすき家で飯を食う社会なのだ、まず第一義に。

愛とかなしみのすき家往還


 というわけで、俺はすき家に向かった。十二時半に近くなっていた。「持ち帰り」で買う。そう決めていた。もうお茶がはいっていたし、持ち帰りのお好み豚玉丼を話のタネに、すき家のこと、ゼンショーのことを語り、我が社の労働者をオルグすることもできよう。オルグって、何に? すき家党に?
 店内は混んでいた。百パーセント近い。俺は支払い待ちのおっさんの後ろにならんだ。ならんで、レジの、中国人のおばちゃんに堂々と言った。「持ち帰りで、お好み豚丼一つ、並で」と。
 が、通じないのだ。「え?」という感じ。なぜか? ひょっとしたら、お好み豚丼は期間終了していたの? いや、しかし……と、横に貼ってあるメニューに目をうつすも、バリエーション多すぎてよくわからん。
 と、おばちゃん、「オコノミ……ギュウドン?」と。お、お好みあるじゃん。「お好み豚丼」と、俺。「ギュウドン?」と俺の目を見ておばちゃん。なぜだ、なぜ通じないんだ?
 と、ふと気づいた。俺は「豚丼」を「ぶたどん」と発音していた。すき家はの豚丼は「とんどん」なんだよ! だから、このおばちゃんと意思疎通できなかったんだ。「お好みトンドン!」と俺。おばちゃん、「ああ!」という顔。よかった、コミュニケーションが取れた。なんというか、コミュニケーションが取りにくいことによるコミュニケーションの成り立ち、というか、距離が縮まることってあるんじゃねえかと思うんだけれども、どうだろうか。
 俺は420円。支払った。メニューでようやく見つけた「お好み豚玉丼」(ずっと「玉」を抜かしていたことに気づいた)の値段と合致する。問題ない。……と、俺はどうも安心できない。レジを任されているのが、「とんどん」=「ぶたどん」の図式すらあやうい中国人女性なのである。この昼の修羅場、なにがおこるかわからんぞ、と。
 そこで俺は、少々悪趣味かもしれないが、よく見えるカウンターの向こう、厨房の方を観察することにしたのである。そうだ、現場を知らずして何を語れよう。すき家の労働状況を見ることが、すき家に対して多少なりとも抗議の声を表明してしまった者のつとめではないか。まして、俺はゼンショーの株主であった男だ。俺はそう思ったのだ。
 従業員は四人。先ほどの中国人おばちゃんの他に、もう一人中国人女性。さらに、若い中国人男性が一人で、彼はかなり不慣れのよう。日本人のおばちゃんが一人おり、彼女が指揮官というか、責任者のようだ。厨房内は慌ただしい。なにか、どうも、誰も頼んでいない牛丼ライトが作られたりしているようだ。さらには、俺の前に持ち帰りカレーを頼んだ客がおらずにパニック(待たされて怒って帰ったのかと思ったら、外にケータイしに行ってただけだった)、中国人おばちゃんが「がちゃがちゃやらない!」と若者を叱る声に、意味のわからない中国語、などなど。レジには食事を終えた人の列ができ、俺は脇によけ、なんだかいっこうに取りかかられない、俺の豚玉を心配して……。
 ずいぶん待って、なんかようやく……と思ったら、あれ、牛玉とか聞こえてくるよ? え、でも、厨房内に「俺、豚−!」とか声かけるべき? でも、なんかレジ直結のレシートシステムだし、俺、豚玉の金払ってるし……とか思ってたら、ほら、日本人のおばちゃんが「お待たせしました、お好み牛玉出ます−」とか言ってるよ。レジの中国人おばちゃんに渡そうとしてるよ。
 ああ、「お好み牛玉丼」。こんなはずでは俺の人生……、も、まあ高い牛丼ならばいいし、だいたいファストフードでこんだけ待ったのもばかばかしい、俺の早食いを考えれば、もう三度並を食うくらいはできている。黙って持ち帰るか。
 と、中国人おばちゃん、「豚」と指摘、レシート見て、ああ、日本人おばちゃん、自分のミスに気づく、こっち見て、「豚ですね、ごめんなさい! すぐつくりなおします!」とすぐ奥に引っ込む。「牛でいいですよ」という暇もない。いやはや。

さらばすき家

 かくして、ようやく俺はお好み豚玉丼を手にして帰還することができた。味? 一部改変して流用しよう。

 さあ、味の方だ。丼+お好み焼きで、なにか新しい反応が起こり、味のミラクルが発現しているだろうか? 答えは否、あくまで「丼にお好みソースとマヨネーズ」の味であって、またこの、想像の範囲を超えないあたりが、すき家の真骨頂というか、路線なのだろうかなどと思う。ホワイトシチュー牛丼などもそうだった。

 ……まあ、そんなところだ。ただ、ただだよ、やっぱり豚の方が合ってるんじゃねえの? それは感じた。それはたしかだ。すき家は最初から最後まですき家だったんだ。
 が、おそらく、俺はもうすき家から離れるだろう。あれだけ弁当で待たされてしまっては。ああ、いろいろの思い出のあるすき家。もっと、従業員がよく訓練され、彼らが真っ当な環境で働き、すばやく注文をこなし、俺がすさまじい速さで牛丼を飲む、そんな世界が来れば……、また逢うこともあるだろう。今はさらば、さようならすき家、ありがとうすき家、しっかり出直してきてくれ……。

関連、つーか、俺、すき家のこと書くとき、やけにいきいきしてね?

 なんつーか、意思の行き違いとか、疎通困難とか、ちょっと楽しんでるんじゃねえの、俺? 今日のことだって、待たされたのはむかつくけれども、なんというか、普通に頼んで、機械的に出てくるよりおもしれえというような気がしている。二律背反、廃藩置県、矛盾してこその人間よ。