脳死とか人とか人の死とか

 こないだ衆院で可決された臓器移植法改正案なんだけれども、まあ、なんかちょっと気になる話なんだけれども、はっきり言って自分の中であんまりよくわかんねーってのがある。けど、わかんねーけど、関係ない話じゃないってのは、たぶん、つーか、ほぼ確実に俺も死ぬし、俺の死がなんかもう明確な、チェーンソーで首ぶった切られて死ぬようなわかりやすいもんになるとは限らないっつーか。あと、脳死移植じゃないけど、身近な人に、例の万波医師の移植手術受けた人の家族がいて、その話とか聞いてると、なんかこの、臓器移植とか、そのあたりについて、やっぱ病気とかどうなるかわかんねーみたいなところもあるじゃん。

◇日本は研究が不十分−−米本昌平・東京大先端科学技術研究センター特任教授(科学史・科学論)の話
 (A案可決は)意外だ。多くの国が「脳死を人の死」としているというが、法律で定めているわけではない。米国や英国、フランスなどでは、脳死状態の判定はあくまで技術的な問題。医療者が慎重に脳死を死と解釈することを社会に問いかけながら、移植実績を積んできた。日本は立法の根拠となる研究が不十分だ。A案は参院で否決し、死について法で定義することの是非から議論しなければならない。

http://mainichi.jp/select/opinion/closeup/news/20090619ddm003010073000c.html

 そんで、いろいろちょろちょろ見ていて、「なんかこのあたり?」って感じたのは、ここに引用したコメントかな−。はっきり言って、法律とかよくわかんねーけど、そもそもとして、「脳死は人の死」って法律で定めなきゃいけねえの? みてえなところがあって、多くの国が「脳死を人の死」としているというが、法律で定めているわけではない。って、どっかの専門家の人が言ってるんなら、そのあたりの俺の違和感も、まあそれなりに的外れでもねえのかな、って。死について法で定義することの是非からってのは、あるんじゃねえのって。
 でも、そりゃ移植待ってる人にとってみりゃ、待ってらんねーって、それはもう死ぬかもしれないのだもの。それで、俺は、脳死の人からの臓器移植それ自体については、別に反対する理由はないっていうか、そりゃあまあ、臓器の持ち主がそう言うんなら、そうすればいいみてえな、そこんところはある。
 で、なんつーか、その、死について「あいまい」じゃいけねえのって、そのところで、ライフスペースの人が、「温度が0度になってないから、死んでない」って言ったりしたら、そこまではどうかってのはあるけれども、こと脳死くらいの微妙さになれば、そりゃあ分かれるしさ、まあ、分かれててもいいじゃん。その上で、脳死からの移植医療をやるわけにはいかねえのかな?
 うーん、たとえば、医者にとってみれば、「法的に死んでるかどうかあいまい」な人体から、臓器を取り出すような手術ってのは、どうなんだ。あれ、じゃあ、現状の移植ってどうなってんだっけ。

D案は15歳以上からの摘出に、本人の同意を条件とするなど制限を残している点でA案と違う。そのほか、現行法通り臓器提供の意思を示していた人の脳死だけを人の死とみなす点が、A案と決定的に異なる。

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090616k0000m010145000c.html

 ああ、なんだ、現行で、人の死は「心臓死。本人が生前に意思表示していれば脳死」だったのか。つーか、先にこういうのちゃんと読んでおけよ俺。つーか、なんだ、だったら、俺だったらD案賛成者ってことになんのかなー。まあ、それでも、その、子供の意思みてえなところとか、そこんところで、たとえば、意思表示なしの子供の脳死があって、そんときに、親の裁量で、その子供の死を決められるってのは、それはもう、なんというのか、その子供の死を飛び越えて、今度は、親であれ、誰か、別の、あるいは、社会の死ということになって、そこんところで、じゃあ、人の死ってなんだよ? ってことになっちまうのかな。
 あー、わからんから、まあ、しばらく、また、ちょっと、ね。