ギ・エンジェルビーツよくわかんね? ヤンキー? 革命?

 『Angel Beats!』がだいたい山場を過ぎてあと一話みたいなところで、どうなんよ? って。どうなんよって、なんか考えたいところがあって、天使ちゃんマジ天使なのは揺るがしがたい事実だとして、なんつーの、作品としてというか、俺的にはSFとしてどうよみたいなところもあって。まあ、はっきりいって、俺は作品とか語れる類の脳の回線がもとからぶった切れてるみたいで、なんつーの、比喩がよくわかんないというか、いや、言葉、会話の比喩隠喩とかわかるよ、でも、作品解釈的なもっと大きなものについては、これはもう完全にお手上げというか。
 でもなんかしゃべると、俺はもっとこのAB!さ、なんかこう、日常と非日常のあれやこれやみてえなところがはじめにあって、オープニングテーマにしたって、そういうところがあって。でもってSSSって要するになんかこの、この学校が普通にあってみたいなところが考えたら、アウトサイダー的なところの、まあ暴れまわってるし、不良集団、ヤンキー連中みてえなところだろ。したら、だいたい現実のヤンキーはよくわかんねえけど、ヤンキー漫画のヤンキーは、だいたい不良になった理由みたいなもんがあって、家族のこととかいじめとか、なんかのコンプレックスとかマイノリティであるとか、トラウマみてえなところがあって、「この社会すごい楽しい!」みたいなのはいなわけじゃん。それが、学校のルールの外で仲間とつるんで、自分の居場所を見つけたぜ、みたいな。こう、主人公と対立する、本当のワルのワルの悪どいやつも、悪いヤンキーからよいヤンキーになったりもするじゃん。
 でも、まあ結局、こう、家族制度のありようとか、学校のシステムとか、社会とか、そのあたりをぶち壊そう、ぶち倒そうってのは、まず無理じゃん。国家転覆するヤンキー漫画とか、なんかありそうな気もするけど、まずないし。異議なしでやんす! で、なんか本当の友だちを見つけたよ→成仏みてえなところで、革命精神が足りないし、その日和見主義は総括する必要があると思うわ。まあともかく、そういうことやん。
 それで、同志ゆりっぺが闘争を目的とみなすか、手段とみなすかみたいなところの問題が生じてて、同志ゆりっぺ的には「己の生は何ものにも代替しがたく、また解釈の変更などにより改変できるものにあらず。かといってそのまま許容するには理不尽すぎるものなり。ゆえに、ただ我はこの生の理不尽と戦うのみなり」みてえなこと言ってて(言ってなかったかもしれない)、それじゃあ闘争はなにかといえば、敗北主義的な、なんつーのか、負けを前提にした、国家転覆も世界征服もできねえのわかってるけど、そんでもやるしかないみたいなもんであって、それは手段なのか目的なのかというと、闘争自体を目的化した左翼小児病的冒険主義であって、革命的集団の指導者としては不適格といわざるをえない。ゆえに、音無のセクト日和見主義に走り、多数の同志の脱退を招いたのである。
 だから結局、ヤンキー漫画の主人公たちがなんで喧嘩に明け暮れるのかとか、そこんところから自分的にも話が飛びすぎてもうわかんないんだけど、あら、本当にわかんない。だいたい、俺、着地点とか考えてないし。あ、まさかこの作品も? いや、そんなことはあるまいて。だってその、種明かし的な人が出てきたじゃん。人じゃないし。つーか、あれ、モニタ撃って意味あんの? ドアの外のケーブル引っこ抜けばよかったんじゃ。うそ、ごめん、そういう些細なツッコミはキライじゃないけど、ここでは置いといて、いや、だいたいもう置いてるんだけど。
 いや、ともかくまあ、なんか世界の大本を作った神がなんだとか、そのあたりはべつにいいんだ、わかんなくても。ハードSFでも、その超巨大構造体を超古代のいったいいかなるものが作ったのか!? という、その謎が謎である部分が華、みたいなところもあるし。で、こう、改変ソフトの、エンジェルプレーヤーの作者の話になって、うーん。こう、この、だんだん、そこに迫ってくみてえな、答えかと思ったら答えじゃなかった、みたいなそういうの望んじゃだめかしら? みたいな。
 したら、その作者氏と、相手の女性? いや、作者氏が男だって言ってたっけ? まあ、ともかくどっちかと天使ちゃんと絡んでないとダメだろ、みたいな気持ちもあるけど、どうなんだろ。天使ちゃんは単にSSSでなかったSSSみたいな人、ということでいいの? わかんねえけど、なんか特別なんじゃねえのみてえなところがあるべきではないか的な。
 あと、音無はヤンキー漫画(また戻るの?)でいえば、一般人なのに迷い込んだ系だと思うけど、この世界的にはどうなんだろ。バグ? でも、音無も思い残すことあって来たよな。たぶん。いや、しかし。
 でも、音無先生の「次はだれにしよっかなー」ってところの、あれはかなり怖いし、おおよそシヴァ神にポアされてよかったねのオウム真理教を思い出さざるをえないところで、そこんところの生と死とこの世とあの世の価値の転倒みてえなところもどうなんよって。だいたい、なんか成仏とかいってて(言ってるよな?)、しかも生まれ変わり前提みてえなのって、お前、エル・カンターレじゃねえんだし、とかさ。いや、作中人物の彼らが、成仏がどうの、輪廻がどうのとか知らなくてもいいし、いや、それはいいんだ。なんかその、輪廻前提のあたりも、まあなんかあんなところに生きてるんだか死んでるんだかわかんないけど、存在してる以上、直観できるところがあるのかもしれねえし。でも、もし、そうじゃなくて、なんかその、そこんところの前提なしに、人格のある存在を消し去ることへの躊躇のなさみたいなのがあったとしたら、それはどうよってところの。結局は消えたいやつは消えてくれって、それでだいたい消えちゃったんだけど、なあ。

 まあ、水木しげる御大の『猫楠 南方熊楠の生涯』でもこんなこと言ってるし、生と死はにわか分かちがたいものであるというか、この我々の生も生と死を不断に繰り返しているものであって、今、まさにこの刹那が十万億土というわけなんや。いったん極楽浄土に行っても、すぐに帰ってくる、それが還相回向や。行ったまんまでもあかんし、とどまったままでもあかん。行ったり来たりの絶え間ない動きやはたらきがあって、そこに祈りというものが出てくる。鈴木大拙は[無心とは何か」でこう述べておられる。

……解脱は宗教の終局の目的です。しかし解脱は、単に離れてしまったというこどではなくて、そこには自主、自由というものがなくてはならぬ。二つのもので作られているところを離れただけでは、働きというものが見えぬ。死んだと同じである。心というものがあれば、それが自由になるのです。……物に拘束せられないところが自由の働きですが、これがあると創造の世界ができて行く、自分で創めて造ってゆく世界なのです。自由に創造するということは、ただ乱暴してゆく世界の意味ではない、乱暴は自主的でない、そこには本当の自由がない。自由は人間としてのわれらがその本然に帰るとき自ら出て来るところのものである。この自由の出るようにするためには、すべてのものを払いのけ、二つの対立したものから抜け出してしまわないと手に入ることが不可能です。

 して、だいたいP.K.ディックの世界では、神と偽の神とかが出てきてさ。あれ、手元に『ヴァリス』も『聖なる侵入』も『ティモシー・アーチャーの転生』もねえや。あれは、仕事の役に立つんじゃないかと、職場の本棚に置いてあるんだ。まあ、役に立たないけどさ。それで、この、音無もさ、「あれ、ここ『ユービック』じゃねえの?」とか思って、つーか、コーヒーもキーコーヒーとかいってねえで、ユービックコーヒーだよな、ヤッターマン、コーヒー、ライター、ゲラゲラ。

 つーか、そんなわけで、ここで終わるし。まあ、なんだ、その、なんだっけ、エンジェルビーツさ、だいたいオープニングの天使ちゃんがピアノ弾いてて、ふあーっと魂が登ってく、あれでだいたい大勝利な感じで、そうしたら、負け戦になるはずもねえし、でも、実際のところまだ最終話がある、みてえなそんなところがないわけでもないし、まったくどうしたものかと思う。