ジョンソンが何を訴えたのかしらねーが
アメリカとかの法律とか裁判の話とか見てると、○○対アラバマ州、みたいな表現出てくるじゃん。その判例によれば、みてえな。あれってなんかかっこいいと思う。ジョージ・サザランド判事 ― 「パウエル対アラバマ州事件」
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-govt-rightsof8.html
(Powell v. Alabama)での判決理由(1932年)
チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ連邦最高裁判所長官
「ブラウン対ミシシッピ州事件」(Brown v. Mississippi)での判決理由(1936年)
1992年のQuill Corp.対ノースダコタ州裁判において連邦最高裁はNational Bellas Hess対イリノイ州裁判(1967年)における連邦最高裁判決を踏襲し……
日本財団図書館(電子図書館) 分権型社会に対応した地方税制のあり方に関する調査研究報告書
ミランダ対アリゾナ州事件(ミランダたいアリゾナしゅうじけん、英:Miranda v. Arizona (384 U.S. 436 (1966)))は、犯罪者の所持する権利を支持したアメリカ合衆国最高裁判所の判決のひとつ。
ミランダ対アリゾナ州事件 - Wikipedia
……とか、こういうの。ああ、あと、上のは、今適当に「対○○州」で検索して出てきただけなので、中身は知らない。
で、なにがどうかっこいいのかというと、対アイダホ州なら対アイダホ州で、こう、アイダホって感じじゃん。ああ、わかんねえか、もうちょっと言うとな、うーん、たとえばジョンソン対アイダホ州裁判みたいなのあると、こう、被告席? いや、証言台か、そこにジョンソンが一人立ってて、判事みたいなのが正面にいてさ、そのまわりにずらっと陪審員みたいなのがいるんだけれども、それがどうもアイダホの連中じゃないかって感じがする。それで、なんかイモの作付とかの権利について争うわけよ。
こう、一人で立ち向かう感じのジョンソンもいいけど、なんというのだろう、訴えられた方もアイダホの連中じゃんって、そういう感じがするんだ。俺がなにいってるかわからないと思うだろうけど、まあ、俺もわかんねーんだけど。あと、俺、アメリカの司法制度とかまったくといっていいほど知らんから。
佐藤対日本国裁判
そうだな、たとえば、日本でも国や自治体を相手取った訴訟ってあんじゃん。あれって、なんつーのかな、この、そうだな、市民というか、まあ、訴える側はまあ俺と同じなんつーか、一般市民だ。それが、いわゆる「お上」的なものと対峙するわけだけど、そんときにさ、まあ、このあたりよくわかんねけーど、完全に他人事になりうるわけじゃん。そういう感じがする。それはなんというか、とくに自分の利害や関心と関係なきゃ、訴える側になんも思わないのと同様に、それで訴えられる側の自治体や国っていっても、まあそっちにとくに肩入れする理由もないじゃん、みたいな。いやね、たとえば、損害賠償みたいなもんだったら、こう、自分のおさめたわずかな税収が使われる、みてえなところがあるわけで、こっちも当事者じゃん。いや、そうじゃないんだ。べつに金の話じゃなくて、なんというのだろう、国が訴えられたら、民主主義国家の一員として俺も訴えられてるみてえな、そういう側面もあるんじゃねえのって。「なんかうるさいのが国と戦ってら」とか、「へんなのに税金使うなよ」ってんじゃなくて、なんだかわかんねーが、まあ、こっちも本来というか、「俺も訴えられた」みてえなところがあるべきじゃねえの、というような。「訴えられた」でないとすれば、陪審員みてえに、アイダホのやつらみたいに、考える立場になきゃいかんじゃないの、というような。場合によっては訴える側に同調し、場合によってはそれを拒む方に同調し、どちらでもないということは、ゆるされないというと厳しいが、まあ現状追認派という立ち位置にあるというような。
ただ、そこんところの、まず法律的な理屈として、行政が訴えられた場合は、べつに一般市民は含まれてるよ、含まれてないよとか、そのあたりはわかんねー。あと、そう考えたところで、そこまで日本国と自分の一体化するような感情は、スッとつながらんようにも思うし、しかし、つながっているべきじゃないのかとも思ったりさ。
三島由紀夫が言ってたらしいけど
愛国者は信用できるか (講談社現代新書)愛国心の「愛」の字が私はきらひである。自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側の対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。もしわれわれが国家を超越してゐて、国といふものをあたかも愛玩物のやうに、狆か、それともセーブル焼の花瓶のやうに、愛するといふのなら、筋が通る。それなら本筋の「愛国心」といふものである。
と、これはこないだ読んだ『愛国者は信用できるか』の中にあった、三島由紀夫の文章の孫引き(孫引きはあんまりよくないのかもしれないのだけれど)になるのだけれども、こういうところがあって、どうも、そこのところの違和感があって。