世界の名著〈第42〉プルードン,バクーニン,クロポトキン (1967年)
- 作者: プルードン,バクーニン,クロポトキン,猪木 正道,勝田 吉太郎
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1967
- メディア: 単行本
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それでは、私はいっさいの権威を排斥するものであろうか? このような考えは、私の本旨では全くない。長靴のことなら、私は長靴屋の権威にまかせよう。家屋、運河、鉄道については、建築家や技師に相談する。こうしたたぐいの専門知識については、それぞれの物知りたちに尋ねもしよう。しかし私は、長靴屋にも建築家にも学者にも、彼らの意見を私に無理じいさせようとはしないのだ。私は遠慮なく思いのまま、しかも彼らの持っている知性、性格、知識にふさわしい尊敬をもって、彼らの言葉に耳を傾けよう。しかし、批判し、検査するという私の持つ犯しえない権利は、自分に保留しているのだ。
私は、たった一人の専門的権威に意見を求めるだけでは満足すまい。私は、多数の権威の門をたたこう。私はこれらの権威の意見を比較検討し、もっとも正しいと思われたものを選びとるだろう。しかも私は、専門的な問題においても、およそ不可侵の権威といったものを承認しない。したがって、しかじかの個人の誠実や真摯をどんなに尊敬するとしても、私はなにびとに対しても絶対的な信用をおかないのだ。このような信用をいだくことは、私の理性、私の自由、私の仕事の成功にとってもまた、致命的なのだ。それは、私をただちに愚かな奴隷へと転化させ、他人の意志や利益の道具に墮落させてしまうであろう。
私が専門家の権威の前にぬかずくのは、私自身の理性で納得して、この権威を自分に課したからである。私は、広範囲な人間知識を、その発展のすみずみまで知り尽くすことができないのを知っている。どんなに偉大な知性の持ち主でも、全部を知悉することはできないであろう。したがって、その結果として、科学においても産業においても、分業と協業とが必要になるのだ。ギヴ・アンド・テークというのが人生なのだ。
……しかし、これらの学校からは、権威の原理の些細な適用ないし表現さえ、徹底的に除去されるであろう。それらは、もはや学校でなくなるはずだ。それは、生徒も先生もいない民衆のアカデミーとなり、そこで、民衆は、必要と認めるなら無料の教育を自由に受講し、他方、彼らが持っていない知識を彼らに授けるであろう教授たちに対して、民衆自身も、その豊かな経験に基づいて、逆に多くの事がらを教えることになろう。したがって、これは、教育ある青年と人民のあいだの相互教育、両者のあいだの知的友愛の行為であろう。
バクーニンがネット社会を予見してたとはいわねーけど
バクーニンはおもしれー。夜、寝る前に『ハルヒ』を読むか、バクーニンを読むか悩むのが俺の日課になってる。だいたい、バクーニンの三勝一敗一分けというくらいだ(もう一つはDSかケータイの麻雀ゲーム)。
で、たとえば上のあたりなんてどうよ? まあなんつーか、しかしさ、その、これ読んだら、今、なんか「インターネット」ってのが頭にふわふわ浮かんでくる人は少なくねーんじゃねーのかって、そう思わね? 思わねーか。よくわかんねーな。でも、なんかその、インターネットってさ、たぶん、学校の中で生徒が先生に食ってかかるより、食ってかかれるだろうし(鉄パイプでぶん殴ったりするのには向いてないと思うけど)、あるいは逆にさ、なんか「知的友愛」? わかんねーけど、まあなんか「いいこと言った!」ってさ、ナイスなこと言った人がリスペクトされたりすんじゃん。
それになんつーのか、そりゃまあ、接続費だのパソコンの金とかいろいろあるだろうけどさ、あと、ネットでだらだらするだけの時間的余裕みてーなもんもあるだろうけど、しかしまあ、ロハでそれなりの文献やらなんやらにアクセスできんじゃん、そりゃまあ、テキストと画像といくらかの動画と音声程度かもしれねーけど、そのアクセシビリテーっていったら、まあしかし図書館行かなきゃって時代とは違うわけだしさ、さもなきゃ何とか先生の弟子にならなきゃとか、天竺まで行かなきゃってのに比べたら、まあ楽ちんじゃん。
でも、どの長靴屋がいいのよ? ってのが謎だよな
で、やっぱりその、長靴屋選びがさ、そこんところのリテラシーとかいうやつ? それが重要なんだよ。でも、でもさ、なんか間違って、長靴について人生で五分間も考えたことのない俺が、急に「長靴の権威なんてのはインチキだ! 僕が長靴をいちばんうまく作れるんだ!」とかいうのは、もう発狂でしかねーわけでさ。
そんでさ、やっぱりどっかに権威っつーか、長靴のスペシャリストがいてさ、俺が長靴について知りたければ、そこの駐車場の角でさっきから一人で酒盛り始めたじじいに聞くより、やっぱり長靴のスペシャリストと目されている人間に聞いた方が、早い可能性が高いわけじゃん。もちろん、酔っぱらいのじじいが、実はかつて陰謀で宮廷を追われた伝説の長靴師である可能性もあるけど、まああんまり可能性は高くないじゃん。そういう意味で、俺は、俺の中で勝手に「よい権威主義」と名づけている、そんな感覚があって、やっぱりまず、どんぐらいの風速(……たとえばバクーニンなんてけっこう昔の外国の人なのに、今、ここの、俺にまで届いてるってけっこう風速じゃん、みてえな)で、ほかにどんな人がリスペクトしてたり、あるいは誰にディスられてんのかとか、そういうあたりで、とりあえず「私自身の理性で納得して、この権威を自分に課したからである」ってなんのがいいんじゃねえのっての、そう思ってる。これは、前にも書いたっけ?
そんでさー、なんつーか、長靴のオーソリティーだったらさ、あー、そりゃまあ、その、もちろん、長靴も奧深いだろうし、たとえば、何十万足生産してどれだけの利益を上げるとか、そういう話になったら別物だけれども、たとえば、「ゴムでできた長靴と、ウンコでできた長靴のどっちがいいのかな?」って疑問に思って、それで、やっぱりゴムの長靴作ってる人の話聞くだろうって。いや、ちょっと待てや、この例えはなんか違う。
ええと、やっぱりその、この、科学・技術は際限なく、ものすげー速さで発展して、社会思想っつーか、正義も悪も、功利も慈善も複雑に絡み絡んでるこの世の中においてさ、「長靴屋の権威」を探すことの難しさっていうかさ。長靴にすげー詳しくても、なんかその長靴観において、致命的なレイシズムの発想が抜きがたく組み込まれていたら、ちょっとそれに乗りたくないって思うじゃん。かといって、それを指摘した反レイシズム長靴派の権威も、後ろからセクシズムについてぶっ刺されたりするかもしれない。だから、長靴ひとつ選ぶのにも、360°の警戒が必要なわけじゃん。いや、長靴選ぶんなら、ABCマートにでも行けばいいんだろうけどさ。
でもさ、こっちは素人だから、長靴にそんなすげえ爆弾が埋まってるって思いもしないわけじゃん。最初から見えねーの。そんでも、やっぱりどっか選んだりしなきゃなんねーし、すげえかしこいやつなら、最初からトラップなんてプップーって華麗にスルーできんのかもしれねーけどさ、そこんところはちょっとゆっくり間違えながらやるしかねーだろって。とりあえず、俺は俺の畑に適合したさ、なんか芽が出そうな種を探すし、その種がなんかすげー毒草でも、やっぱり先に薬草見分けられんのは植物学者だし、まあ、毒を育ててもいいじゃねーのって考えるくらいでいいんじゃねえのか、みてえなさ。
ギヴ・アンド・テークというのが人生なのだ、っていうけどさ
しかしなんだね、俺はテークの話ばっかりしてて、ギヴの話しねーなー。でもさー、なんつーの、俺みたいな半端もんに、なんかギヴできるかっていうと怪しいしさ。そんでもさ、すげえ小さい話だけど、たとえば、この日記に、一週間に一回はあるような検索語みてえのがあって、たとえばそれはExcelファイルの肥大化であったり、イモネジがなめたときの対処だったりするんだけれども、いや、しかしさ、我ながらあんまり役にたってねえんじゃねえかって、いや、でも、なんかたまたまこれ読んでうまくいった! とかなったりすりゃ、それはそれで、まあ俺も、一回くらい、ネットというか、ネットの向こうの誰かにギヴしたかもしれねーしさ、その比が100:1か10000:1かわかんねーけど、一応は、ひょっとしたら、俺もギヴしてっかもしれねーし、なんかまーさー、「民衆自身も、その豊かな経験に基づいて、逆に多くの事がらを教えることになろう」とはいえねーけど、まあ、俺程度のが100いればそれなりに多いかもしれねーし、もちろん、嘘、でたらめ、紛らわしいことを公園のスプリンクラーみてえにぶっしゅぶっしゅ撒きまくってるかもしれねーけど、そのあたりは受け手の慧眼、長靴屋の権威選びに任してさ、あー、わかんねーけど、なんかそんな調子でやっていこうかと思います。おしまい。