今週のお題:「忘れられない出来事」

クラスノート1.0

 中学に入ってすぐのことだったと思います。ホームルームで担任の先生が一冊の大学ノートを掲げ、これを「クラスノート」とする、と宣言しました。説明によるとそれは、先生と生徒の交換日記であり、また、クラスの生徒たちの間を行き交う交換日記とのことです。彼はクラスを受け持つと、必ずそのノートを作っているのだと言いました。
 仕組みは簡単です。出席名簿順に、まずA君がノートに、最低でも一ページ何かを書きます。内容は自由です。今週のお題すらありません。書いたらそれを、先生に提出します。先生は必ず返事を書きます。そして、そのノートを次にB君に回し、またB君は先生に提出し……という繰り返しです。誰かの書いたもの、それに対する先生の返事、それらがどんどん書き加えられ、クラスを巡っていくのです。
 はじめはみな、手探りでした。なにせ、私立の学校なものでしたから、小学校のころから見知った顔はほとんどいませんし、まだ学校の校風や、この担任の素性もわかりません。しかし、しだいにわかってきたことがあります。このクラスノートは自由だと。本当に何を書いてもよいのだと。何を書いても問題はなかったのです。日記でもいいし、悩みごとでもいい。話題になっているニュースでもいいし、プレイしているゲームの攻略法でもいい。文章ばかりでなく、イラストでもいいし、なにやらコンピュータのプログラムをプリントアウトして貼りつける人もいました。また、ときには人のページについて意見を書いたり、論争みたいになったこともありました。
 そうなってくると、私などは生来おしゃべりな方で、またものを書くのもイラストを描くのも好きなものでしたから、このノートが回ってくるのが楽しみでなりませんでした。何を書いたのか、具体的に覚えてはいません。ただ、好きなように、ただ、できるだけおもしろく。ときにはかなりの分量になったようにも思います。そして、分量に見合った内容があると、勝手に自負していたものです。
 そんなこんなで、中学にも慣れてきたある日のこと。まだあまり親しくない、いや、ほとんど話した事のないクラスメートが、私の方に近づいてきて、ニコニコしながら言うのです。「お前のノートおもしろいな。いつも楽しみにしているよ」と。
 私は、そのとき、どんな顔をしたのか、どんな返事をしたのか……、実は、さっぱり覚えていません。この後、その彼と親友になったという話もありません。たまに話すようにはなりました。そしてまた、それに気をよくした私が、のちのち立派な物書きになったという話もありません。ただただ、中一の私はそう言われたのでした。そして、私にとっては、ただただそれが「忘れられない出来事」なのです。
 ……なんともしまりのない話です。私はそれに感激できなかったし、飛び上がるほどうれしいとも思えなかった。いや、うれしくないはずがないのです。ほとんど知らないやつに、わざわざ話しかけてくるくらい、私の書いたものを楽しんでくれたのです。よろこばないわけではない。ただ、同時に、私は「まあ、おもしろく書こうとしているのだから、おもしろがってくれて当たり前だろう」というような、ある種の傲慢ともいえるような感覚もあったのでした。ただ、なんとも言えぬ、どう処理していいかわからない、そんな気持ちになりました。それは確かです。なぜって、これは私の「忘れられない出来事」なのですから。

クラスノート2.0

 そして私は、ここまで、その宙ぶらりんの気持ちを、つねに抱いたまま生きてきたように思います。私はどうも、ほめられたりしても、それを受け止めて、次のやる気につなげるような、そんな回路がないのです。ただただ私は、私のやりたいようなことを、ただ一人でやる、その妙な意思には事欠かない、そんなところがあって、そのひとつが文章を書くことなのでした。
 前に、私はこう書きました。

そしてたぶん、俺がこの日記をつらつら書き続け、このように晒しだしているところも、あんがい、誰に見せる目的もなく、ただただマルフクの写真を撮っていたそれに近いんじゃないかと思う。

マルフク主義宣言〜ホームページだのブログだのなんてなくったって〜 - 関内関外日記(跡地)

 これは正しいのですが、ひとつ忘れていた、クラスノートを忘れていたのです(あれ? 今週のお題に反してんじゃね?)。私はネットに、ブログに出会う以前に、まったく似たような、それは紙と鉛筆でできていたけれども、実に似たものと出会っていたのでした。ようするに私は、いまだにクラスノートを書き続けているのです。先生もいないし、次に回す人も決まっていない。でも、まだそれを繰り返している。繰り返しつづける。
 そして、クラスメートのあなた。私は、このネットの世界にあって、たぶん、はじめて私と同じように、書かずにはおられない、あなたの存在を知りました。なんのためにというわけでもなく、ただただ書きたいから書く、そんな風に見える。
 もちろん、私は私だし、あなたはあなただ。動機も目的も趣味も思想もなにもかも違うかもしれない。てんでばらばらの方向に、ばらばらの早さで走っているだけかもしれない、歩いているかもしれない、ちょっと休んで寝ているかもしれない。けれども、刻み込まれた言葉や何かを見るとき、少なくとも同じ地図の上にいたんだと感じる。そして、それは悪くないな、ちょっといいなって、そんな風に思う。
 めいめい勝手に、なんでも自由に、好きな方向にささやいたり、叫んだりして、それでいて、ぶちこわれるほどぶつかったりはしないで、自然と調和するような集まり……。一瞬、あのクラスノートで実現した、先生も生徒も生徒間の妙なグループの垣根もなかった世界。それは実現しうるはずです。
 そう、私は素直によろこべる回路を持っていない人間だ。他人との関わりはできるだけ避けたい、最小限で済ませたい。なにかのため、誰かのため、というのは苦手です。ただ、私が私のやりたいようにやって、そんな集まりに少しでも寄与できるならそれに越したことはないし、そうであればいいと思います。
 それでは、いわれなくてもまた明日、おしまい。

 ……そして、一切そんなものはなしに、みんなが勝手に躍って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。/大杉栄